パンデミックの社会課題解決に向けた学際研究

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パンデミックの社会課題解決に向けた学際研究

Lessons learned

背 景
 世界の人口増加・人為的要因による生態系の変化・グローバル化の進展などにより、パンデミックのリスクはかつてないまでに高まっている。このように高まるパンデミックのリスクを軽減するためには、国際社会が協力して対応することが求められる。しかし、COVID-19の原因ウイルスの起源をめぐる米国と中国の対立、ワクチンへの公平なアクセスに関するグローバルサウスとグローバルノースの対立、米国の世界保健機関の脱退など、現在の地政学的状況下では、世界が協力してパンデミックなどに対応することは困難になっている。また、欧米諸国が他国、特に東アジア・オセアニア諸国から得た教訓を十分に検討せずに、パンデミックへの「予防(prevention)」「備え(preparedness)」「対応(response)」(PPR)を率先する運びとなっていることも注目されるべき現状である。

 COVID-19のパンデミックにおいて、欧米各国では特に初期に大きな被害が生じた。一方で東アジアやオセアニア諸国は、欧米に比べて2020-2021年の死亡率は全体として低かった。日本では、他の東アジアやオセアニア諸国と比べても異なる対応をしてきた。例えば、日本では外出自粛・移動制限・マスク着用・ワクチン接種などについても強制力はなく個人の判断に依存していた。また、東アジアにおいては個人情報を疫学調査に使ってきた国があったのに対し、日本ではそのような対応を取ってこなかった。

 東北大学が進める総合知を行動に繋げることにより持続可能な社会を目指すことを目標として、SOKAP(Sustainability Open-Knowledge-Action Program)というイニシアティブが2023年に開始された。その一環として、始まった研究プログラムであるSOKAP-Connectに、「パンデミックの社会課題解決に向けた学際研究(TUPReP)(Tohoku University Interdisciplinary Collaboration for Global Preparedness and Local Resilience to Next Pandemics)」が採択された。このプロジェクトでは、①歴史的背景、②感染症の文化的背景(疾病観・死生観を含む)、③社会的格差、④グローバルヘルスガバナンスなどの問題について自然科学の研究者と人文・社会学の研究者が協力して、COVID-19から明らかになったさまざまな社会的課題についてさらに議論を深め、国際的な提言としてまとめていくことを目的として2年間にわたって活動を行ってきた。

 日本のCOVID-19の死亡地率が欧米諸国に比べて低かったのには多くの要因があったと考えられる。ここでは特に、TUPRePで取り組んできた①歴史的背景、②感染症の文化的背景(疾病観・死生観を含む)、③社会的格差、④グローバルヘルスガバナンスといった観点から、日本の対応からの教訓をまとめるものである。
日本の対応からの教訓
提言1「感染症危機に際しては重層的な対策の実施が求められる」
 COVID-19はコントロールが非常に困難な感染症で、単一のアプローチでは制御が不可能であった。欧米は当初集団検査(Mass testing)を実施し、ワクチン接種が始まってからはワクチンに頼った流行の制御を目指し、被害は拡大した。一方、検査のみによる制御は不可能であり、さらに変異株が出現するとワクチンに依存した感染症制御は困難となった。日本では、重症化阻止効果は比較的高く保たれていたワクチン接種率が高かったこと、マスク着用率が高かったこと、当初から「3密(密閉・密集・密接)」の概念を提唱し、それが一般市民に浸透していたことなど、さまざまな対策が実施されることで総合的に被害を抑えていった。COVID-19のように単一の対策では制御が困難な感染症に対しては、柔軟に対応し、幾つもの対策を実施していくことが必要である。

提言2「公衆衛生インフラは維持・強化されるべきで、保健所は重要な役割を果たした」
 日本ではCOVID-19対応において保健所をはじめとした地域の公衆衛生インフラは不可欠であった。保健所とは、管轄地域の公衆衛生の促進・維持を担当する地方自治体の施設で、全国に469カ所あり、母子保健・衛生管理・感染症対策など、多様な活動を通じて地域レベルで健康を保っている。1937年に東京と埼玉県に保健所が初めて設置され、第二次世界大戦後のアメリカ占領下にて1947年の保健所法のもと、大規模な改革と全国展開が実施された。法律により、保健所は立ち入り検査を通して事業や施設の閉鎖を命じることができる法的権限を付与された。歴史的に、そして現代においても保健所は日本における感染症の制御に貢献してきた。恐らく最も保健所の効果が見られたのは、未だ日本に存在する結核である。

 保健所には約28,000人の職員が勤務しており、感染症の訓練を受けた職員も含まれている。職員の約8,000人は保健師(公衆衛生分野における高度な研修を修了し、国家資格試験に合格した看護師)であり、地域社会との協働による健康促進・教育戦略の策定、健康プログラムのモニタリング・評価、自然災害への対応など、多様な役割を果たしている。多くの保健師は、結核患者の接触者追跡など実践的な業務も行った経験がある。

 特にパンデミックの初期段階においては保健所による接触者追跡は効果的で、感染抑制に貢献した。他のアジア諸国とは異なり、日本はプライバシー保護の観点からスマートフォンの位置情報などの個人情報を接触者追跡に利用しなかった。保健所の接触者追跡は、主に保健師による広範なインタビューを通じて実施された。パンデミック初期の対応において、地域の公衆衛生インフラは不可欠である。今後は地域保健インフラを維持しつつ、より効率的な疫学調査システムを確立させる必要がある。感染に関連する個人情報の開示には、強みとリスクが存在する。感染者の個人情報の利用に関する広範な議論が不可欠である。

提言3「自発的行動変容を促すことが重要」
 COVID-19パンデミック発生後、多くの国で外出制限・移動制限などが行われた。さらに、マスク着用やワクチン接種を義務化する国が多くみられた。日本ではこれらの対策についても強制力を持った対応は実施されず、個人の自発的行動変容に委ねられていた。民主主義国家では緊急時においても強制力を持つような対策の実施は最小限とされるべきである。日本の強制力を伴わない対応でも行動変容のコンプライアンスの高かった理由のひとつは日本社会にある向社会性(Prosociality)であると考えられる。ただし、向社会性に頼ることは差別や偏見を生む可能性もあることには留意が必要である。

提言4「適切な医療アクセスを維持すべき」
 欧米においては2020年1月から2月にかけて多くの感染者が見逃されていたことがその後の感染拡大につながったことが示されている。一方、日本では医療アクセスの高さによりコロナ初期には感染者の早期発見につながり、その後も重症化リスクの高い感染者の早期治療につながった。さらに、重症化のリスクファクターである肥満などの基礎疾患の有病率が日本においては欧米より低いことも、死亡率の違いにつながったと考えられる。適切な医療アクセスを維持していくことはパンデミック対策としても重要である。

提言5「パンデミック対策の一環として社会的格差は是正すべき」
 COVID-19の被害は社会的格差によって大きく左右された。アメリカでは死亡率は人種に依存していることが示されており、ヨーロッパでも移民労働者のコミュニティーで被害が拡大した。これらの背景には劣悪な住環境・職場環境だけでなく、医療アクセスの格差もあった。健康の社会格差はパンデミック以前より存在しており、社会的に脆弱な集団において既往疾患や肥満などの重症化リスク要因を高い割合で擁していたことも、COVID-19被害の社会格差の背景を成していた。今後も社会的格差の拡大が予想されているが、高齢者などを含めた社会的弱者をどう守るかという視点とともに、健康格差を平時より是正する社会的取り組みが今後のパンデミック対策には必要である。

提言6「死者の扱いについて柔軟な対応を」
 COVID-19パンデミック時においては感染症による死者の看取りや葬儀が必要以上に制限され、遺族に大きな心理的負担を与えた。感染症により亡くなった患者の対応に当たっては、患者の尊厳や患者家族の哀しみに配慮することが不可欠である。また、患者の生や死に対する考え方や地域文化、信仰にも敬意を払うことが重要である。

提言7「共生の時代に向けて新しい哲学を」
 COVID-19パンデミックの原因には、人間が及ぼした地球に対する過重な負荷や社会的な格差があった。さらに、その背景には近代の人間中心主義的な思想、または人文学でいうところの「主体性の哲学」があった。「主体性の哲学」では個人は他者や人間以外の存在と独立して存在し、人間の利害が環境のウェルビーイングを上回るという。一方、日本人は歴史的に「関係性の哲学」を通じて感染症と向き合ってきた。「関係性の哲学」では、人間は他者や人間以外の存在との関係性の中でしか存在せず、世界は多様な存在の調和によって維持されていると考える。
 現代社会においては、神をバッファーとして機能させることは徐々に減り、社会が直面する多くの社会的な対立や感染症リスクは人間中心主義の浸透によって起きている。「関係性の哲学」において、「正義」は異なる社会集団間および人類と環境との調和を重視する。「関係性の哲学」は現在の社会的状況を理解する視座を提供してくれる哲学で、環境との調和的な関係がパンデミックのリスクを低下させるという「プラネタリーヘルス」の概念と一部重なる。特にこのような不安定な時代において、パンデミックのリスクを低下させるため、「関係性の哲学」を取り入れることが検討されるべきである。

提言8「グローバルヘルスガバナンスの再構築を」
 現在、世界各国によりCOVID-19後におけるパンデミック対策のグローバルな枠組みが考えられている。パンデミックを未然に防ぐための体制づくりは国際的な公益として世界各国で協力して構築していくべきである。しかし、現在の地政学的環境はそのような体制構築を非常に困難にしている。国連発足から80年を迎える今日、WHOを含む国連の専門機関の体制を2025年の国際社会の現状に適合する形に改革することが求められており、そのような体制の構築において日本を含めたアジア諸国は重要な役割を担う。

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