パンデミックの社会課題解決に向けた学際研究

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パンデミックの社会課題解決に向けた学際研究

第1回クロストークミーティング報告

SOKAP-Connect
第1回TUPRePクロストーク報告
「人文学的視点から見たCOVID-19パンデミック ―なぜ日本人の死亡率が低いのかー」
開催日時 2023年9月28日 18:00~21:00
開催方式 ハイブリッド形式
対面会場 東北大学星陵キャンパス・6号館1階・カンファレンス室1
司  会 坪野吉孝(東北大学大学院医学系研究科 微生物学分野 客員教授)
日本語版記録 大友 英二(東北大学医学部医学科 4年)
参加者 47名(対面21名、オンライン26名)
●全体構成

話題提供① 押谷 仁
(東北大学大学院医学系研究科 教授)
話題提供② 佐藤 弘夫
(東北大学大学院文学系研究科 教授)
話題提供③ 木村 敏明
(東北大学大学院文学系研究科 教授)

第1回TUPRePクロストークでは、「人文学的視点から見たCOVID-19パンデミック ―なぜ日本人の死亡率が低いのかー」というテーマのもと、COVID-19パンデミックについて日本の文化的背景に着目した議論が行われた。まず押谷仁教授からCOVID-19に対する日本と世界の対応についての概説があり、その後佐藤弘夫教授からは欧米と比較した日本独特の哲学について、木村敏明教授からは民俗学的視点から見た日本人の世界観について話題提供をいただいた。その後ディスカッションでは、これからの日本や世界のあり方、姿勢について議論が繰り広げられた。

●はじめに 押谷 仁
(東北大学大学院医学系研究科 教授)

 今回が第1回となるTUPRePクロストークは、総合知で社会問題を解決し、持続可能な社会の実現を目指す東北大学のオープンプラットホームであるSOKAP(Sustainability Open-Knowledge-Action Platform)の研究プロジェクト1つである、TUPRePプロジェクトの一環として行われるものである。COVID-19パンデミックが世界に与えた影響は健康被害にとどまらず、経済、社会的側面からも大きな問題となった。日本でも大きな被害をもたらしてきているが、日本は欧米と比較して人口当たりの死亡者が相対的に少なかった。TUPRePプロジェクト、すなわち「パンデミックの社会課題解決に向けた学際研究」ではここに着目し、自然科学の研究者と人文・社会学の研究者が協力し、歴史的背景、文化的背景、社会的格差、グローバルヘルスガバナンスの4つの視点から日本及び海外のCOVID-19パンデミックへの対応を検証する。これによって日本の被害が欧米に比べ相対的に少なかった要因を解明し、最終的にはこれを「日本の視点」からの提言として英語で世界に発信し、グローバルなPandemic Prevention, Preparedness, and Responseシステムの改善を目指すものである。TUPRePクロストークはそのための学際的な議論の場となる。

話題提供① 
「COVID-19に対する日本と世界の対応」
押谷 仁 (東北大学大学院医学系研究科 教授)

 COVID-19パンデミックの本質は、感染性も致死率も高い新型ウイルス(SRAS-CoV-2)が発生したことである。そして、このウイルスが世界中に広まったこと、そしてより感染性の高い変異株が繰り返し発生し続けたことで、流行は遷延化し被害は拡大し続けていった。
 このCOVID-19パンデミックに対して、欧米、アジア、日本は異なる対策を行った。欧米は、COVID-19パンデミック以前の考え方のまま、国主導で感染者数の増加の鈍化による被害軽減を図ったが、前述のように感染性も致死率も高い新型ウイルスが流行した今回のパンデミックではそれだけでは被害を軽減することができず、大量の死亡者が発生した。一方日本では、パンデミック初期から中国や欧米における死者の爆発的な増加を鑑みて、拡大スピードの抑制と可能な限りの重症者と死亡者を減少させることを目標とした。しかし、日本で行われた対策は他の国とは異なり、強制力をともなわない自粛の呼びかけなどが中心であった。しかしその結果、日本ではある程度の死亡者は発生したものの、人口百万あたりの死亡者は米英の5分の1以下に抑えることができた。一方、日本以外の中国、韓国などのアジアでは、厳しい法規制による封じ込めを中心とした対策を長期に渡り維持した。この封じ込めによりパンデミック初期はアジアでのCOVID-19による死者は日本よりも抑えられたものの、封じ込め政策の長期的な維持には社会的に大きな代償が必要となり、さらにデルタ株などの変異株の発生もあり、結果として多くの死者が発生したが欧米よりは死亡者は少なく抑えられた。
 欧米と日本での死者数の違いにはパンデミックに対する対策の違いが影響いていたと考えられる。しかしそれだけでなく、いわゆるProsocial behavior(利他的な行動)が日本ではとられていたことや日本に古くからある「共生」という独特の世界観、パンデミック初期におけるCOVID-19に対する対応の慎重さ、エンパシーの強い国民性など、日本と欧米を比較したときに日本の特徴、「日本の視点」といえるものは多くあり、これらはパンデミック対応の結果に差を生んだ要因を考える際に重要なキーワードとなるだろう。さらに、欧米は社会的課題の解決のために「唯一の正解」を求める傾向にあり、「答えのない問いへの対応力」、すなわちネガティブケイパビリティともいうべきものが欠けていたことが今回のパンデミック対応の失敗にも現われているとも考えられる。

話題提供② 
「コロナウィルスがみた光景 <主体性の哲学>と<関係性の哲学>」
佐藤 弘夫(東北大学大学院文学系研究科 教授)

 我々は普段生活する中で、自分の生きる世界観を意識することない。しかし、世界観はその中で生きる人々の意識と言動を規定する。現代人の世界観である近代的世界観は欧米を中心として成熟したものである。この中では、理性への信頼のもと、人間を特権的存在として扱い、主体性を持った人間が信念を貫く人生を理想の生き方としている。これはいわば主体性の哲学とも言え、人権の発想などもここに由来する。これに対して、日本列島には、世界を構成する森羅万象との調和を人間の理想のあり方とし、世界の中で人間が突出しないという独特の世界観が古くから確かに存在する。これは、人と人・人とモノとの関係性を重視する関係性の哲学とも言える。この世界観の中で人は、いかに生きるかを正面から論じることで哲学を作り上げるのではなく、様々なものとの理想的な関係性を描く寓話や祭祀に思想を偲ばせるのである。この2つの哲学はそれぞれ生物がもつ2つの本性に根ざしていると考えられる。すなわち、主体性の哲学とはいわば生存本能からくるものであり、一方関係性の哲学とは自身の属する種や集団の存続に関わるのである。
 この日本に存在する関係性の哲学からすれば、日本人は感染症ですら疫病神として共棲してきたのである。疫病神は排除できない存在であり、むしろ不満に耳を傾けるべき存在である。そして、疫病や天災は彼らとの関係性の乱れの結果であり、乱れた調和を復活させる、すなわち疫病神と和解することが重要であると考えられてきた。この考え方を通して現代日本におけるCOVID-19パンデミックへの人々の対応を見たとき、日本での死者数の少なさには日本人特有の「同調圧力」が関係していると語られるが、この同調圧力の根源として、我々には人だけでなく「コロナに対する配慮」が無意識のうちに埋め込まれていると考えることもできるのである。
 現代という主体性の哲学が過度に突出した時代おいて、語らないものの声に耳を傾ける姿勢によって、人間を相対化できる新たな視座を得ることこそが、関係性の哲学の意義だと考えられる。例えばCOVID-19パンデミックの問題を関係性の哲学の観点から考えるとき、「新型コロナウィルスは我々に何を語ろうとしているのか」というウイルスの視点からの問題提起を得ることができる。人との関わりが希薄になりつつある現代でウイルスの声に耳を傾けることは「隣の人の声」に耳を傾けることにもつながるだろう。
 近代においては人間以外の様々なものが排除され、緩衝材を失った人間、共同体、国家間での強烈な自己主張の衝突が起こっている。この現状を考えたとき、関係性の哲学の中ではクッションとしての神が存在しており、人と人とは向かい合わず、個人間や共同体間の軋轢を柔らかく包み込むようなベールのように機能していたのである。例えば近年見られる「ゆるキャラブーム」も、息苦しさの中でクッションとしての神を呼び戻そうとする現代人の悲鳴としても捉えられる。人間だけではない、我々が今ここに、「共にいる」ことの意味を考え直し、共に生きるモノへの敬意を払うという視点を、我々は歴史の中から学べるのではないだろうか。

●話題提供③ 
「民間信仰における疾病観」
木村 敏明(東北大学大学院文学系研究科 教授)

 明治から昭和にかけて活躍した小説家の志賀直哉は1919年に小説「流行感冒」を発表する。この作品ではスペイン風邪の流行を背景に、当時の典型的な近代的エリートである主人公が、女中を通して自身と対極の存在である田舎の人々が生きる世界観、その中での感染症への姿勢に触れる姿が描かれる。
 主人公が女中に見た世界観は当時の日本の一般的な民間信仰的習俗であり、そこでは感染症の原因は「神」として祀られる。特に疱瘡神の信仰は各地で見られたが、この疱瘡神とは単に疱瘡を起こす神という意味合いのほかに、疱瘡を治す神、そして疱瘡による死者や彼らのための供養碑など、多様かつ複合的な性格が含まれる。ここには、「病などで苦しんだ死者が、神となって同じ病に苦しんでいる人々を救う」という当時の日本固有の観念が見て取れる。
 江戸期に様式化された疱瘡への対処や文献からわかるように、人々にとって疱瘡神は排除すべき敵ではなく、お互いに交渉できる存在として認識された。このように、日本の場合死者や様々な霊は、人々を超越した存在ではなかった。むしろ彼らは人々と同じように苦しみ悩む存在とされた。供養などを通して死者や霊とお互いに苦しみを察し、癒やすことで彼らとの調和を回復する。それを通して自分も救われる「共苦共感世界」という独特の世界観が形成された。ここにも、佐藤弘夫教授の話題提供で言及された「関係性の哲学」の一端が見て取れる。一方でその厳格な関係性の中で感じる息苦しさのようなものも度々指摘されている。  
 日本と欧米でのCOVID-19死亡者の差が注目されるが、日本国内でも地域により被害の差が見られた。ここには、例えば首都圏と関西圏での死者供養への考え方の違いなど、地域ごとでの文化の差が影響している可能性がある。この差に着目することで、単なる欧米との比較とは異なる視点からの議論ができるのではないだろうか。

ディスカッション
●欧米主導の枠組みの問題点

 現在、「パンデミック条約」の策定を含めた「パンデミック後の社会」の議論において、様々な場面で欧米が議論の中心となっている。しかし、欧米主導の議論は単一解を求める傾向がある点に注意が必要である。例えば、欧米を中心にCOVID-19パンデミックの教訓から、新たな感染症が発生してから100日以内でのワクチンを含めた危機対応医薬品等の実用化を目標とした「100日ミッション」を提唱しるが、これにはワクチンを作れないパンデミックの発生を一切考慮に入れていない、実際には発見から数十年経った今でもワクチンを開発できていない感染症も数多く存在する。また、現代でスペインインフルエンザと同程度のパンデミックが発生した場合、第1波、すなわちパンデミック発生から100日以内に相当数の死亡者が発生するとするシミュレーションもあり、これは100日ミッションが絶対的な解決策でないことを示している。このように、様々な可能性を考慮せず単一の対策に頼る欧米的な考え方は非常に危険である。

●COVID-19パンデミック下でのアフリカの実態

 アフリカなど低・中開発国では、今回のCOVID-19パンデミックで実際には多数の死者が発生しており、特にデルタ株の流行では入院施設の圧倒的不足などにより相当数の死者が発生した。しかし適切なデータ収集が行われなかったため、公式の死亡統計では死者が少ないように見えてしまう。

●日本人が持つ関係性の哲学とネガティブケイパビリティ

 江戸時代の訴訟では、民事裁判前に当事者と仲介者による和解、すなわち「内済」が一般的だった。内済は、絶対的な法律ではなく人と人との関係性の中で己の規範を作り、自己を律するという日本の文化の表れと捉えることができる。そもそも人間が掲げる「正義」とは1つであり、その正義が衝突した際にはどちらの正義を通すのかという問題になる。ここで「できるだけ早く自分の正義を押し通そう」とする姿勢が、単一解に走る欧米的な姿勢なのだろう。それに対して、相手との関係性を尊重する態度では解決にどうしても時間がかかり、自分の正義に反するものであってもある程度は折り合いを付けなければならない。しかしこのように試行錯誤する姿勢がいわゆるネガティブケイパビリティを育むのであり、長い目で見ればより強靭な社会を生むのだろう。

●単一の対策でなく、複数の対策を組み合わせる

 1918年から1920年に発生したスペイン インフルエンザに対してもマスクや隔離は有効であった可能性が高い。特に日本人はマスクに対する抵抗感が欧米よりも低かったため広く普及しており、これが死亡者数の抑制に貢献した可能性がある。COVID-19パンデミックにおいても、日本での死者が欧米より少ない理由は単一ではなく様々な要因が絡んでいる。今後のパンデミックにおいても、ワクチンや医薬品のみに頼らず、マスクや自主隔離など様々な対策を組み合わせることによってしか被害を減らすことはできないだろう。それぞれの対策単一による効果は限定的だが、それらを組み合わせて実行することでより効果を発揮し得るのである。

●失われつつある「地域の強さ」

 かつての日本では、寺や寺子屋を中心としたそれぞれの地域社会があり、そのつながりの中で人々は生活していた。この「地域のつながり」こそが日本社会の強みとも言える。しかし明治以降、社会の変化と共に大都市圏を中心にこの「地域の強さ」は失われつつある。これが、2022年の第6波まで、日本国内におけるCOVID-19の流行が大都市圏を中心としたものであったことにも影響しているのだろう。仮に今回のパンデミックと同様のパンデミックが20年後の日本で発生したら、「地域の強さ」が更に失われ、移民も増加したような未来の日本では今回と同様の対応はできないだろう。

(討論時に使われた、生存者バイアスの語義が不明確なので、全体を削除する)
●社会のあり方そのものを考えなければならない

 これからも既存の感染症による死亡者が増加し、新しい感染症も発生することは想像に難くない。そんな中今最も考えなければならないのは、社会のあり方についてである。現代では、かつて存在した死者との関係性という概念がなくなりつつある。すなわち死者は社会から追放されており、現代人はいわば真っ暗な死の世界に何の媒介もなく向き合うことが求められているのである。これが現代人の不安の根源の1つにもなっている。ポスト・コロナの時代を考えるに当たり、単に死者数の抑制のみを考えるのではなく、我々を支える社会のシステム、あり方について、過去から現在にかけての長いスパンの中で今の立ち位置を見直す必要があるだろう。

●ケアの倫理とネガティブケイパビリティ

 アメリカのキャロル・ギリガンは1982年に、著書「もう一つの声」の中で「ケアの倫理」を提唱した。これはローレンス:コールバーグによる「正義の倫理」に対抗する、人間同士の関係性の維持を重視したものである。それまで欧米ではこのような「ケアの問題」が思想的な問題として取り上げられることはなく、当時大きな反響を呼んだ。そしてこの「ケアの倫理」という、他者との関係性に重きを置き離ればなれを防ぐ中で生まれたのが「ネガティブケイパビリティ」なのである。パンデミックや環境問題、化石燃料の枯渇など、今の社会が直面する問題は単純な答えを持たない。にもかかわらず、欧米的な考えのもと科学技術の過信しこれらの問題に単一解を求めようとすると、必ず行き詰まってしまう。しかし日本には、人間やそれ以外の他者との関係性の中に生きる中で育まれた、ネガティブケイパビリティを持った特性が、失われつつありながらも残されている。この特性は、我々が抱える簡単には解決できない問題と対峙するに当たり、何らかの示唆を持っているのではないだろうか。

●団塊世代と若い世代

 団塊世代を中心とした高齢者は自分の権利やアイデンティティを協調する、主体性に満ちた世代である。事実COVID-19パンデミックの規制下においても行動変容が見られなかったのは中高年であり、社会のルールに従順なのはむしろバブル崩壊後の若い世代だった。この若い世代が日本の中心になることで、日本人の意識に「主体性の哲学」から「関係性の哲学」への揺り戻しが起こるのではないだろうか。これは、我々が直面する多くの問題に対しても糸口になると期待できる。

●科学的ではない、ナラティブなエビデンス

 COVID-19パンデミックによる日本の被害が欧米に比べ相対的に少なかった要因を解明し、これを「日本の視点」からの提言として英語で世界に発信することが今回のクロストークの目的である。ここに科学的エビデンスを求める声もあるが、「同じパンデミックを繰り返す」ことができないので再現性が得られない点、各国が複数の感染対策を同時に実施しているので単一の対策の効果を科学的に証明することはできない点から、残念ながら厳密な意味での科学的エビデンスは非常に乏しい状況である。のそのため、このクロストークで見つかった要因をパンデミックの被害を抑える絶対解と主張するわけではなく、もちろんこの要因をもとに日本の優位性を論じるわけでもない。また、2023年1月にサイエンス誌に公開された論説(“‘Storylistening’ in the science policy ecosystem”)では、データのような科学的なエビデンスと個々の体験談のような「ナラティブやストーリー」を総合させるという学際的な試みが、政策形成の力になると述べられていた。
 今回のパンデミックで日本の被害が世界的に見ても少なく、欧米の被害が深刻だったという事実が存在する。このパンデミックで日本が経験してきたことを整理することにより、欧米的考えでは通用しなかったという事実に何か発信できる「ナラティブやストーリー」が見つけられるのではないかという考えのもと、このクロストークを進めていきたい。

●人々がデータを見て、主体的に動く社会を

 災害やパンデミック対策で重要なのは、それに対して1つの解を求めそれに安心するのではなく、当初想定していなかった事態に対して柔軟に適応、変化することである。これについて、日本の政府や行政は問題に対する迅速な対応が極めて下手である一方、日本の一般人はデータを見せればそれに合わせて迅速に動くことができる。また、我々は健康に関わる問題について「医療がなんとかしてくれるだろう」などと医療に対し幻想を持ちがちだが、医療はPremature deathの予防はたった10%しか貢献していないという事実がある。これからの日本で求められるのは、政府や行政、医療に対策を任せきりにするのではない、人々が能動的にデータを見て、主体的に動く社会なのではないだろうか。

●医療史の見方が変わる

 明治以降日本に入った西洋医学や衛生知識は科学的、近代的であり、日本全体に広まったが、それと共に日本にそれまで存在した伝統医学は消滅した。これが歴史学から見た近代の医療史である。しかしその中で「日本的な考え方」がどのように生きてきたかに着目することで、これまでの医療史とはまた違った発見があるだろう。

●パンデミックと死の問題、Quality of Deathについて

 ナラティブ化された政策提言を発信する上で、その前提にある概念が重要である。そこポイントとなるのが、日本と欧米、または年齢層によってCOVID-19パンデミックにおける死への向き合い方、すなわちQuality of Deathと言われるものが異なっていたのではないか、という点である。また、国内では東日本大震災とCOVID-19パンデミックで死者への扱い方異なるように、COVID-19による死者への社会の認識という問題にもつながる。
 死はいつの時代にも避けられないものである。しかしかつての日本には、それぞれの時代や地域ごとに、死をナラティブとして繰り返し聞くことで自然と死に親しむという伝統が存在した。それが失われたことで、人々は得体の知れない死を不安に感じるようになり、人の心にゆがみが生じてしまったのである。今、そのゆがみは波のように大きくなっている。現代のこの状況はどのように位置づけられるのか、できるだけ長いスパンの中で認識する努力が必要である。
 また、このような死の問題は、COVID-19パンデミックというコンセプトだけで考えてはならない。というのも、今回のパンデミックは子どもが重症化しにくく、世界中で流行が遷延するという、歴史的に見てもかなり特殊なパンデックなのである。人類が過去4回経験したインフルエンザパンデミックでは死者の主体は小児であり、スペイン風邪の流行でも死者の中心は20代から40代の若者だった。すなわち、これから先に発生するパンデミックも、従来のパンデミックのように若者や子どもが死者の中心になる可能性は十分にある。そのようなパンデミックに直面したとき、我々は死の問題をどのように考えなければならないのか、真剣に議論する必要がある。

●日本の強みが活かされていない

 アメリカは地域の力が弱く、「誰がやっても上手くいく」マニュアルをCDCが作製し主導しない限り動かない国といえる。一方で日本には、地域の力が強いという特色があり、本来ならばこの強みを活かし、保健所や地域医療に注力するべきである。しかし実際には、日本政府は司令塔機能の評価や日本版CDCの設立など、全く逆の方向へと進んでいる。このままでは日本は強みを失い、より脆弱な方向へと流されてしまうという危機感を感じている。

●パンデミック下で闘った人々の経験談を残していく

 今回のCOVID-19パンデミック下では、拠点病院ではない中小規模の病院や訪問看護に携わる医療関係者は、退職者の増加による人手不足や外部からの嫌がらせに耐え忍びながら必死に地域の医療を支えてきた。彼らの経験を形として残していくことには大きな意味があるだろう。

●単なる日本賛美、欧米批判にならないために

 今回の議論で大きなキーワードとなった「主体性の哲学」や「関係性の哲学」をはじめ、日本的な観点と欧米を比較する場合に、それにより欧米に対する日本の優位性や欧米の没落を論じるのは危険である。例えば関係性の哲学などは日本以外でも見られるものであり、今回の議論で見いだされたポイントを「世界に偏在するもの」として落とし込む必要がある。

●Lessoned learnedの危険性

 日本の経験としてナラティブやストーリーを発信する意味は大きい。しかし教訓、すなわちLessoned learnedはこれらを抽象化し、むしろストーリーをダメにしてしまう。あくまでストーリーであることが重要であり、抽象化されたLessoned learnedをさも正解かのごとく世界に発信するのは極めて危険である。

最後に

 今回のクロストークでは、「主体性の哲学」「関係性の哲学」「ネガティブケイパビリティ」など多くのキーワードが登場し、これらを中心に有意義な議論が展開された。これからも議論を深め、そこで得られたものを1つの形にまとめ、欧米にとって気づきを与えるような「日本発のナラティブとストーリー」を世界へ発信していきたい。

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