パンデミックの社会課題解決に向けた学際研究

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パンデミックの社会課題解決に向けた学際研究

第3回クロストークミーティング報告

SOKAP-Connect
第3回TUPRePクロストーク報告
「パンデミック条約と国際保健規則の改正:交渉の現状と論点」
開催日時 2024年1月11日 18:00~21:00
開催方式 ハイブリッド形式
対面会場 東北大学星陵キャンパス・6号館1階・カンファレンス室1
司  会 坪野吉孝(東北大学大学院医学系研究科 微生物学分野 客員教授)
日本語版記録 大友 英二(東北大学医学部医学科 5年)
参加者 計41名(対面19名 オンライン 22名)
●全体構成

話題提供① 西本 健太郎
(東北大学大学院法学研究科 教授)
話題提供② 植木 俊哉
(東北大学理事・副学長 / 法学研究科 教授)

 第3回TUPRePクロストークでは「パンデミック条約と国際保健規則の改正:交渉の現状と論点」というテーマのもと、グローバルヘルスガバナンスの視点からCOVID-19パンデミックへの対応とこれからの国際保健についての議論が行われた。まず西本教授からパンデミック条約と国際保健規則の改正について現状の紹介があり、その後植木享受から国際的社会におけるルールメイキングの基本原則について概説をいただいた。ディスカッションでは、パンデミック条約をめぐる問題点や先進国と途上国の対立について議論が行われた。

●話題提供① 「パンデミック条約と国際保健規則の改正:交渉の現状と論点」
西本 健太郎(東北大学大学院法学研究科 教授)

 現在WHOでは、将来起こりうるパンデミックへの対策のあり方を包括的に定めた国家間条約としての「パンデミック条約」の交渉及び起草、そして既存の国際保健規則(IHR)の改正の検討が行われている。これらはCOVID-19パンデミックで明らかになった課題や反省を踏まえたものとされているが、特にパンデミック条約については本質的な意義があるか議論の余地がある。

 パンデミック条約は、2020年11月にミシェル欧州理事会議長がCOVID-19パンデミックを教訓としたパンデミックに対する国際的なルールメイキングの必要性を提起したことを端緒として、EUから提案された。この条約は、将来のパンデミックに対する様々な側面から対応策、強化策が盛り込まれており、その内容は主に「条約義務を通じた各国における対策と国際協力の強化」そして「新たなルール・国際枠組みの構築」に分けられる。特に後者に関してはパンデミックを起こしうる病原体の情報の共有によるワクチン等の「パンデミック関連製品」の開発、そしてそれに関わる多数国間での適正な利益配分を目指すWHO病原体アクセス・利益配分システム(PABS)や、パンデミック関連製品の調達や備蓄、配分についての国際的なメカニズムであるWHO SCL Network(WHO Global Supply Chain and Logistics Networkの設立など、新しい具体的なシステムが含まれている。

 このようにパンデミック条約はポストコロナ社会に向けた新たな国際的枠組みとして注目されている。しかし、この条約が真に新たなパンデミックへの備えとなるかを考えると、多くの問題点がある。まず、パンデミック条約交渉と同時にIHRの改正が並行で進行しており、これらの調整の必要があるにも関わらず、条約の一部内容のIHRと重複している。また、条約草案は締約国に対して国内計画・戦略の策定義務を通じて各国の政策を誘導するものであり、締約国に具体的な対応を課す規定が多くない。そのためこの条約が真に実効性を持っているのかについては疑問が残る。さらに、全体の内容もワクチン等「パンデミック関連製品」へのアクセスに重点が置かれている。これはCOVID-19パンデミックの反省としてグローバル・サウスが提起する、ワクチンなどへの「衡平性(equity)の問題」を背景とするものである。しかしこの問題が単に物的部分だけで解決できるわけではないことは容易に想像がつく。そして将来、COVID-19パンデミックとは特性が異なるパンデミックで、例えばワクチンや薬が作れないようなパンデミックも起こりうると考えたとき、物的側面に偏った現在の条約の内容は十分ではないだろう。この他にも、この条約がパンデミック関連製品の開発に関わる生産能力が地理的に衡平であることを前提としている点や、PABS下でのパンデミック関連製品を開発するインセンティブが先進国にとって魅力的でない点、そしてパンデミック対策において生じる、脆弱な立場の人の保護や人権侵害の防止などの問題についてほとんど無視されている点など、今のままのパンデミック条約は様々な点で不十分であり、実効性に欠けている。

 現在パンデミック条約の発効については、2024年5月の第77回WHO総会にて成果物を提出することを目標に、政府間交渉会議(INB)が設置され、話し合いが行われている。繰り返される議論の中で、COVID-19パンデミックの反省を生かし、将来のパンデミックに対し真に意味のある国際的なルールが作られることを期待する。

 一方パンデミックに関わるWHOの既存のルールであるIHRは、WHO憲章第21条に基づく規則である。パンデミック条約と比較すると、加盟国ごとの批准のは必要なく全てのWHO加盟国を拘束するルールである点、そしてIHRの下では加盟国による「コアキャパシティ」の維持が加盟国の中核的な義務とされている点で異なる。このIHRもCOVID-19パンデミックを教訓として改正が検討されている。この改正における主な論点は、一つはIHRの遵守確保に関する制度の設立、そしてもう一つはPHEICの認定方法である。前者について、IHRは全てのWHO加盟国が守るべきルールであるにも関わらず、現在の遵守確保には一般的な問題があることが分かっている。そのため、制度的に履行確保を強化するための提案が複数国からなされている。しかしその具体的な実施方法の案にはアフリカ連合、米国、EUなどで意見が分かれている。一方後者については、現行制度ではPHEIC (Public Health Emergency of International Concern)の認定は「PHEICに当てはまるか否か」でしか議論されない不十分性に対して、いわばその「中間」状態を設けるべきとするものである。これも、「中間」状態をどのように定義し、どのような規制をしくのかが焦点となる。

●話題提供② 「国際的なルール作りの基本」
植木 俊哉(東北大学理事・副学長 / 法学部 教授)

 国際社会におけるルール作りの出発点は「合意は拘束する」である。これは、国会を通った法律は個人の意見に関係なく国民に対し拘束力を持つという国内でのルール作りと異なり、国際社会においてすべての主権国家はルールメイキングの場では平等であり、ある国家がルールに合意することによってはじめてルールはその国家に対し拘束力が発生することを意味する。これは裏を返せば「合意なくして拘束なし」を意味しており、すなわち自国にとって不利なルールならば合意しない自由があるのである。特定の諸国家にばかり有利なルールを作ろうとしてもその利益の外となる他国が合意しなければ、そのルールは実効性に乏しいものとなる。そのため、ルール作りの場ではお互い受け入れ可能な範囲を徹底的に議論し双方が合意できるルールを作るというという非常に複雑なプロセスを踏む必要がある。

 パンデミック条約の起草やIHRの改正については、グローバル・サウスと先進国が激しく対立している。これは、いわば正義・平等の問題に根差すものである。グローバル・サウスが先進国に対し「実質的平等」を根拠に自分らに有利な条項を提案するが、先進国形式的平等」を根拠として合意しない。これを繰り返せば、パンデミック条約もIHRもパンデミック対応に関する国際的枠組みとしての意味をなさないものとなってしまう。そしてこの実質的平等と形式的平等の葛藤という問題は、現代の国際社会において、パンデミックや公衆衛生の領域に限らず、環境問題など様々な分野で共通して見られるものである。
 国際社会で実行力のあるルールを作るために、「合意なくして拘束なし」の原則に立ち返りながらお互いにとっての最適解を探る議論をしなればならない。

ディスカッション
●現在のパンデミック条約は意味のあるものか

 パンデミック条約をめぐる議論の根本的な問題は、「パンデミックが起きたときにどうするか」ばかりに焦点を当て、「パンデミックの発生を阻止するためにどうするか」についてほとんど触れられていないことである。例えばCOVID-19パンデミックも、実は2020年3月末の時点ではアジアでは感染がコントロールできていたにもかかわらず、変異株がヨーロッパで急速に流行し、さらにアメリカ東海岸を経て世界中へ広まった。これについては、この時点で欧米が十分な感染対策を行えていればパンデミック至らなかった可能性あると専門家の間で議論されている。このような、パンデミックのさらに上流の問題について、パンデミック条約は踏み込めていない。また、パンデミック条約ではワクチンなどパンデミック関連製品について多く言及されており、G7でも「PHEIC宣言から100日以内に診断薬やワクチンや治療薬を開発、承認取得と世界中への公平な供給」を目標とする100日ミッション(100 Days Mission)が提唱されている。しかし1918年のスペインインフルエンザパンデミックでは最初の流行の発生から3か月以内に死亡者の大半が発生していることも事実であり、このような100日ミッションが達成されてもほとんど命を救えないパンデミックの発生も今後十分にあり得る。もちろんワクチンはパンデミック下での最後の砦として必要である。しかしその上流の問題として、パンデミックの発生そのものを防ぐための公衆衛生対策についてもより議論していかなければならない。

 現在議論されているパンデミック条約は、既にIHRがパンデミックの早期対応に関する枠組みを含んでいるため、IHRとの重複を考慮したという構造的な問題も含む。しかしそのIHRがCOVID-19パンデックに対して機能しなかったのも事実である。例えば、IHRに規定されたコアキャパシティ(地域国家レベルにおける、緊急事態発生時の対応に関して最低限備えておくべき能力)の点数とパンデミックでの人口当たり死亡者が逆相関することが指摘されている。これはIHRが各国の能力を適切に評価できていなかったことを示している。また感染症のグローバルコンテインメントを目指すとき、例えば米中、米露関係のような地政学的な問題も障壁となる。もちろん、パンデミック対策は感染症の伝播防止という意味で共通利益がある問題であり、政治的対立を考慮しても協力の得られやすい領域であることは歴史からも見て取れる。それでも、IHRで踏み込めない領域をカバーする国際的なルールとして、パンデミック条約のような国際的なルールが必要ではないだろうか。

 加えてこのパンデミック条約はいわば枠組み条約とも言え、パンデミック防止に関する内容以外にも、サーベイランスに情報を提供するインセンティブ?報酬サーベイランスやOne Healthについてはその後の締約会議でより具体的な内容を決めることが想定されている。また、現在のルール作りの1つの形として、条約を締結した後に繰り返し会議を開き、国際情勢の変化に応じて改正を繰り返すというフレキシブルな手法がある。現在のパンデミック条約に問題があることは事実だが、これらの点にも留意しなければならない。

  ●”Zero draft”から現状の距離感

 2023年2月にWHOが発表したパンデミック条約の”Zero draft”の冒頭では、COVID-19パンデミック対応で国際社会は連帯および公平性において壊滅的な失敗(“catastrophic failure”)をしたと強調されており、そのような現状認識の下で法的に拘束力のあるルールとしてパンデミック条約の議論を始めなければならないと論じている。特に“catastrophic failure”のような強い表現が使用されていることは国際法上大きなインパクトを持ち、現状の危機感と条約を作る必要性が認識されていたことが窺える。

 この”Zero draft”の起草からおよそ1年がたったが、当時から今にかけて議論に大きな進展はない。当初はグローバル・サウスに先進国より弱いレベルの備えを許容する「共通だが差異ある責任」をパンデック条約やIHRに盛り込むことを求める途上国からの主張も見られた。もちろん国同士の公平や平等は重要であるものの、各国がそれぞれ最低限のコアキャパシティを持つことがIHRの理念であり、キャパシティが低さを理由に不十分な備えを許容するような「共通だが差異ある責任」を認めると、脆弱な国からパンデミックが発生するリスクがある。そのため現状のIHRやパンデミック条約の議論では、「共通だが差異ある責任」は認めずにあくまで能力のレベルの差異があるという認識し、そのような国々も共通にパンデミック条約を遵守するための支援が必要というロジックを採用している。このように、途上国と先進国の間での議論は交渉の途上にある。

 また、法的拘束力のあるルール、すなわち”Legally binding”な条約を目指すという点においては、”Legally binding”にこだわるほどその中身は薄まって一般論にとどまる、または補助的な位置づけや先送りの対象になるといった傾向があるものの、パンデミック条約があくまで”Legally binding”なルールであるという旗印を掲げ続けるのは、WHOにとっても非常に重要なことである。

●インセンティブに欠けるパンデミック条約

 公衆衛生分野は国際的に利害が一致する分野であるため合意が得られやすいだろうという意見に関して、たとえばパンデミックの前段階として自国内で新しいウイルスが発生した場合、特に途上国の場合は、パンデミック条約に則った対応をすると自国経済が大打撃を受けることになる。このようなルールでは合意が得られにくくなるため、パンデミック条約が「正直者が馬鹿を見る」ルールにならないよう、インセンティブの制度化は非常に重要である。

 また、パンデミック条約に盛り込まれたPABSについても、パンデミック関連製品を開発した企業がWHOに毎年一定額を払う必要があるが、その額も期限も決まっていない。加えてWHOに「現物の20%を提供する」という表現も非常に不明瞭である。そもそもPABS自体が途上国の主張から生まれたものであり、このような現状でPABSを必要だと考える先進国はないだろう。

 さらに言えば、PABSではパンデミック関連製品の製造を加速化あるいは大規模化するために必要な物資については、TRIPSやWIPOなどの関連する枠組みの下で知的財産権を時限的放棄するという条文が条約に含まれている。これは公平や平等の観点から途上国が主張しているが、先進国にとってはパンデック関連製品開発のインセンティブが全くないという制度設計についての批判や、科学者間の情報共有が阻害されるというウイルス学者からの批判が多い。インセンティブに関する対策として「PABSマテリアルで、共有アクセスが提供されていないと製造できないはずの製品を製造した場合は、PABSを利用したと見なす」という強権的な手法が提案されてはいるものの、先進国は一方的な負担に不満を持っている。  インセンティブの面から考えるとパンデミック条約は国際的に合意を得られやすいものとはいえない。正直者が報われるような、そして開発インセンティブを阻害しないような制度設計と交渉が必要である。

●パンデミック条約の投資効果とBBNJ協定をめぐる議論との比較

 気候変動対応に関する国際協力の流れを見ると、1997年のCOP3で締結された京都議定書では締結国に温室効果ガスの削減義務と違反した場合の罰則が規定されるという極めて厳しい内容が盛り込まれた。一方、2015年のCOP21で採択されたパリ協定では温室効果ガス排出削減目標を「国が決定する貢献(NDC)」として各国が提出、更新し最終的にグローバルに集計するという、京都議定書とは打って変わって拘束力の弱いものとなった。これは、各国を法的拘束力で縛るよりむしろ、エネルギー産業を取り囲む投資環境を刺激するような国際世論の形成を優先した対応とも考えられる。

 一方パンデミック条約ではPABSなど新制度設計に関わる部分は法的拘束力が強いものの、それ以外には拘束力はあるものの責務の内容がかなり弱いものとなっている。また、名古屋議定書により遺伝資源から得られた利益の公正な分配については、それが発見された国と合意された条件に基づいて行われるよう定められており、PABSマテリアルについても同様の議論が途上国と先進国の間でなされている。

 ここで、途上国と先進国とのあいだの議論の焦点がどこにあるかを考える。2023年6月に国連海洋条約を補完するBBNJ協定が採択されたが、その中身である海洋遺伝資源を使用した場合の経済的利益配分の具体的な方法については発効後に決定するものとし、それまでの条約予算の一定割合を先進国が負担することとなった。この合意は、先進国にとっては個々の企業に負担させる仕組みができる前に国が丸ごと払うことで開発インセンティブへの悪影響を避けること、そして先進国がこの協定で優先したのは海洋環境保護のための仕組みであり、途上国との対立が金銭で解決できるなら妥協した方が良いと考えた結果である。これは途上国にとって一つの成功体験となっており、PABSでも同様の主張を押し通そうとしている。一方先進国にとってPABSはBBNJ協定のようなメリットがないため、妥協することなく途上国と対立し議論は続くと考えられる。

●戦時国際法と平時国際法の関係がパンデミックにも当てはまるか

 1945年以前の国際法は、戦時に機能する戦時国際法と平時に機能する平時国際法という全く異なる二つの法規範が存在した。しかし国連憲章で戦争の禁止と武力不行使が確立されたことで、1945年移行の国際法秩序から戦時という法的概念は消滅した。そのため、現在は一つの国際法体系が機能し、そのなかで「非常事態」である武力紛争について、不必要な犠牲の防止と人間の保護を目的とした国際人道法が整備されている。パンデミックを一元的な国際法秩序でどのように捉えるのかを考えたとき、非常事態あるいは例外的状況であり軍隊的組織でないと有効に対応できないという意味ではパンデミックは武力紛争と類似しており、そのような特殊な非常事態に備えたルールは必要だろう。

●先進国はパンデミックに責任があるのか

 気候変動をめぐる国際協力の流れにおいて、気候変動による損失と損害である「ロス&ダメージ」対策の資金拠出に関して、先進国が気候変動への歴史的な責任をある程度認めるという概念が生まれている。パンデミック条約やIHR改正についても途上国は先進国に対し「共通だが差異ある責任」を求める動きが活発に行われた。しかし「共通だが差異ある責任」が認められるには歴史的な寄与とキャパシティの二つの根拠が必要であり、パンデミックをめぐる問題では前者が当てはまらないため、「共通だが差異ある責任」を認めない反面、国ごとに異なるレベルのキャパシティが存在することを認め、途上国は公平の観点からキャパシティ構築の支援を得ることとなった。

●パンデミック関連製品以外での先進国と途上国の利益対立

 パンデミック条約の中でパンデミック関連製品の開発以外に先進国と途上国の利益対立が発生する分野として、技術とノウハウの移転がある。現在の規定では”encourage”という弱い表現が使われている。具体的には知的財産権の時限的放棄や情報開示などが含まれており、途上国としてはCOVID-19パンデミック時に経験した不公平な扱いを理由に、アクセスを求めているのである。しかし先進国にとっては、先進国と途上国の間の利益の取り合いというよりもむしろ、知的財産権の尊重などの観点から国内法制度との対立が問題視されている。

 パンデミック条約のみならず最近の条約交渉では、強制的な技術移転や能力開発支援が途上国から主張される。平等な競争では資本も技術も能力も先進国と大きな格差があり、同じ条件の競争は格差が増大するため、技術移転は先進国の義務であるとするのがこの主張の根拠である。一方先進国もこれを一般論として受け止めてはいるが、具体的な法的義務でなく道義的な責務に留める条文にするなど、双方の妥協点を見出す努力をしている。

●パンデミック下での人の移動の規制

 パンデミック条約には、人の移動に関する規定はない。というのも、IHRの目的規定に国際交通の保障と公衆衛生対策のバランスを保つことが含まれているため、内容がIHRと重複してしまうためである。そもそも人の移動を法的に制限するとは、各国の出入国管理政策に干渉することになる。このように国際機関が各国の国内管轄権、国家主権に踏み込んで厳しく規制を行うと、逆に各国から反発が出る可能性があるため実現は困難である。人の移動の規制についてはむしろ自由な移動の保障が原則であり、必要最低限な規制をどのように作るか議論が必要である。

●途上国が抱える責任

 パンデミック条約をめぐる議論には、グローバル・サウスが掲げる「正義」、すなわち途上国と先進国の格差の是正を根拠とした主張と、先進国の対立が見られる。しかし彼らの主張とは、実質的には「リスクは取らないがベネフィットをくれ」という主張としても理解できる。例えばPABSも途上国の提案によるものが大きいが、これはパンデミック関連製品の開発に関わる費用やリスクのすべてを先進国が担い、開発された製品を途上国が得るという構図になる。しかしこのような主張をしていながら、そもそも途上国は自国がなすべき責任を果たしていない側面があることも無視できない。

 例えばインフルエンザパンデックについて、将来のパンデミックに対するワクチン開発の製造キャパシティを維持するために、途上国を含め各国が季節性インフルエンザのワクチン接種を行い、ワクチン接種の市場確保に努める必要があるにもかかわらず、途上国の多くはこれを行っていない。先進国も途上国に向け多額の投資を行っているが、これはあくまで途上国がワクチン市場をサステイナブルな形で維持する約束を前提する投資である。にもかかわらず、多くの途上国は、先進国やWHO、CDCが投資した領域には投資していない。さらにCOVID-19パンデミックでも、グローバル・サウスはワクチン分配の不公平を主張しているが、実際にはCOVAXで一定程度のワクチンが提供されており、これはむしろワクチン接種体制を整備していなかった途上国の問題でもある。さらに、途上国には政治的に不安定な国も多いが、例えばワクチンが提供されたとして反体制派の人たちにも接種する態勢がないのが現状である。このように、パンデミック対策には全ての国がパンデミックに対する備えとして投資をする必要があるにもかかわらず、途上国は自国の責任を果たしていない部分も大きい。

 パンデミック条約にはサスティナブル・プロダクションという規定が含まれる。これは、各国のパンデミック関連製品の製造設備の維持に必要な措置や投資をサポートするものだが、これも先進国から見たら単なる途上国への一方的な支援に過ぎないとも批判し得る。そもそもサスティナブル・プロダクションデとはパンデミック関連製品について、途上国、先進国関係なくどの国でも生産し、かつ維持できることを目指すものである。しかし現状では、本来の目的と実際の行動や主張に不一致がある。

  ●パンデミック条約をめぐる議論は今後どうなるか

 パンデミック条約は、これから起こりうるパンデミックに対する備えを国際的に整備し維持するための条約である。しかしそこには特に先進国にとって不利になる内容が多い。これから先の議論では、例えばPABSや知的財産権の時限的放棄など、本当に不利な部分には断固反対するのが先進国の共通した立場であると予想される。しかし、仮にその部分が緩和されても、先進国にとってはパンデミック条約により何が得られるのか分からない部分が多い。IHRの改正の方が、各国がキャパシティを確保することで安全な国際社会に寄与し、各国が利益を得るものとして理解が得られやすい。IHRと異なり、パンデミック条約は批准するか否かは各国の判断に委ねられる。このままだと、批准する国が少なく実質的な意味の乏しい条約に終わる可能性もある。多くの国が批准できる、そして批准するインセンティブがあるような中身にしなければ、この条約はこの先厳しいだろう。

 例えばパンデミック条約にはOne Healthの概念が含まれており、これは先進国にとって大いに魅力的であり、パンデミック条約に批准するメリットと映るかもしれない。しかしOne Healthのような内容は、農業や観光、動物産業が主な財源となる大部分の途上国にとっては素直に納得できるものではない。WHOもOne Healthに対してどこまで本気になるかは難しい問題である。

 もちろん、先進国といっても一枚岩でなく、途上国も一枚岩ではない。グローバル・サウスの諸国も、様々な利害の錯綜や対立がある。先進国グループと途上国グループで、部分的に利害が一致する部分もある。単なる先進国と途上国といった二極の対立として理解するのではでなく、各国の利害の一致点と相違点をより丁寧に評価する必要があることを忘れてはならない。

最後に

 2023年1月にLancet誌に掲載された記事(“Human rights and the COVID-19 pandemic: a retrospective and prospective analysis”)では、一般的な万民に対する健康の権利をパンデミック条約の基礎的な理論として置くことを提言している。現状、人権については既に国連で人権保障に関する枠組みが存在するため、本来的にはそちらで議論するべき問題である。その一方で、人権全般をめぐる議論では「パンデミック下での人権の問題」が注目されることはなく、パンデミック条約の中で議論することには、それなりの意味があるだろう。しかし実際に人権を取り扱うルールメイキングに手を出すにしても、先進国と途上国の対立やコストの問題がある中で本当の意味で実効性のあるものにできるのか、疑問が残る。そしてこの人権の問題が、WHOという専門機関が取り扱う「保健」の概念にどこまで絡み、どこまでUNESCO等他の専門機関との重複を回避できるのかも重要である。

 今回、将来起こりうるパンデミックへの対策のあり方を包括的に定めた国家間条約としてパンデミック条約が作成されることはもちろん大きなステップである。しかし、次に起こるパンデミックはCOVID-19パンデミックとは全く異なる性質を持ったものとなる可能性は十分にある。今回のCOVID-19パンデミックは高齢者の死亡が中心で、非常に長期にわたるパンデミックだった。そのため人口に占める高齢者の割合が高く高齢者施設等も数多く存在する先進国では犠牲者が多い一方で、ワクチンが開発され世界中で使用されるに至った。しかし、かりに次のパンデミックが非常に短期間に発生し死者の大半が子どもを含めた若年層だとすると、途上国でも多くの死者が発生し、かつワクチン開発も間に合わないことが予想される。事実1918年のスペインインフルエンザの死亡者の大半は20代や30代の若年層であり、仮に同じようなパンデミックが現代社会に起きた場合、死亡者は6500万以上におよび、その95%は途上国であると予測した論文も存在する。

 将来の対策を考える場合、過去に実際に起きたことのみをベースとして考えるのは非常に脆弱なことである。例えば阪神淡路大震災を経て、建物の倒壊や火災を中心とした防災が全国に広まった。しかしその後に生じた大規模な災害である東日本大震災で多くの人命を奪ったのは、阪神淡路大震災では全く想定していなかった津波であった。このように、過去に起きたことをベースにして考えると、次に起こることに対応できない。今回のパンデミック条約をめぐる議論も、大部分がCOVID-19パンデミックをモデルとしている。そのような姿勢では、次のパンデミック対策は厳しいものとなる。そうして次の全く新しいパンデミックが発生したとき、また別の枠組みが必要になり議論することになるのだろう。そのようなあらゆる可能性も含めて、今後何に投資をしたらより強靭な社会を作れるのか、そしてどのように世界を作っていくべきなのか、先進国も途上国も考えていかなければならない。

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