パンデミックの社会課題解決に向けた学際研究

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パンデミックの社会課題解決に向けた学際研究

第4回クロストークミーティング報告

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第4回TUPRePクロストーク報告
「感染症の社会史にむけて」
開催日時 2024年3月6日 18:00~21:00
開催方式 ハイブリッド形式
対面会場 2024年3月6日 18:00~21:00
司  会 坪野吉孝(東北大学大学院医学系研究科 微生物学分野 客員教授)
日本語版記録 大友 英二(東北大学医学部医学科 4年)
参加者 49名(対面24名、オンライン25名)
●全体構成

イントロダクション小田中 直樹
(東北大学経済学研究科 教授)
話題提供① 竹原 万雄
(東北大学東北アジア研究センタ― 助教)
話題提供② 川内 淳史
(東北大学災害科学国際研究所 准教授)

 第4回TUPRePクロストークでは「感染症の社会史にむけて」というテーマのもと、近代以降の社会の変化について、感染症に対する人々のイメージの変化を中心に議論が行われた。まず小田中教授から西欧における産業革命以降の「他者」の誕生について概説をいただき、竹原助教(Professor)からは明治初期日本の公的記録から当時の衛生行政や患者隠蔽について紹介していただいた。続いて川内準教授(Professor)からは、ロシア風邪やスペイン風邪の事例から人々が抱く感染症への「恐怖」について話題提供をいただいた。ディスカッションでは、日本や世界の社会のあり方の違い、特に欧米と比べた日本の特徴について議論が行われた。

●イントロダクション「産業革命・資本主義・帝国主義 ー西洋における『他者』の誕生」
小田中 直樹(東北大学経済学研究科 教授)

 COVID-19パンデミック下の日本では、ペスト・パンデミックの中で翻弄される人々を描いたアルベール・カミュの『ペスト』が再注目された。しかし、実はそれ以前の1722年にダニエル・デフォーが、ロンドンのペスト・エピデミックを題材とした『ペスト』を発表している。この同名の2つの小説の間には、ペストという存在と人々の関係性の変化がうかがえる。
 
 ダニエル・デフォーの『ペスト』は、1665年のロンドンで実際に発生したペスト・エピデミックをテーマに、その記録という形態を取っている。この作品の中での登場人物達の動きを見たとき、所謂エリート層はペストに対する感染予防策として市中心部からの逃亡や家屋の閉鎖に動いた一方、民衆はペストからは逃れ得ないという絶望に陥り、予言や占星術のような迷信にすがっていたことがわかる。また、作者であるデフォー自身が神を深く信じた人物であり、「疾病は神のみ手の業である」などの記述からもわかるように、作品を通じて「神の存在」が強く意識されていることも、この作品の特徴の1つである。
 
 一方、アルベール・カミュの『ペスト』は1947年に発表された小説である。1940年代アルジェリアのオランを舞台に、架空のペスト・エピデミックに翻弄される人々を描いているが、実はペストをナチスドイツ、ペストと闘う人々をレジスタンスとして、ナチスドイツに抵抗する人々の姿に見立てられている。この作品の中で登場人物は、エリート層の人々は隔離や消毒、そして薬剤といったように感染予防対策と治療法を確立し対処しているが、その一方で民衆は「外からやってきたからにはいつの日か去って行く不愉快な訪問客」または「やがて過ぎゆく悪夢」など、「他者」としてペストを捉えている様子がうかがえる。
 
 このように2つの『ペスト』を比較したとき、登場人物のペストの捉え方は大きく変化しており、人々にとってペストが「何かわからないもの」から「制圧可能な他者」へと変わった。もちろん、19世紀末のペスト菌が発見されたことで治療法が認知されるようになったことはエリート層に影響しているだろう。しかし、民衆を含め人々がペストを他者と認識するようになったという変化を考えると、実はこの変化の契機は産業革命にある。
 
 産業革命は18世紀イギリスで起こったが、この産業革命には「蒸気機関の実用化」が非常に大きな意味を持っている。蒸気機関のエネルギー源は石炭であり、イギリスは石炭に恵まれた国であったこともあり、自然に対するイメージが従来の「原材料の供給元」から「無尽蔵にエネルギーを供給する存在」へと変化した。つまり、「自然とは無尽蔵な存在であり、使い切ったら他の自然を探せば良い」というように、自然が自己である人間から外部化され、「他者」として認識されるようになった。
 
 また、産業革命により世界経済社会の構造が変化した結果、資本家と労働者からなる生産システムとして資本主義が誕生した。これは賃金と労働の等価交換を基礎としているが、実際には19世紀には資本家の富裕化と労働者の貧困化が目立つようになり、マルクスは「不等価な交換」と批判している。資本主義が拡大する中で、資本家は無尽蔵な労働力として労働者を認識し、使い切ったら他を探せば良い存在となった。言い換えれば、資本家にとって労働者とは共感できない「他者」となった。
 
 資本主義の確立による大量生産の実現により、自国に有利で独占的な原料供給地・製品市場を拡大する必要性が高まり、国際社会では植民地を拡大する帝国主義が生まれた。植民地を増やすことで大量生産と利益の拡大が可能になる一方、それを支えるために原料供給地や製品市場のさらなる拡大が必要となり、新たに植民地が求められた。このように帝国主義の下では、外国とは無尽蔵な存在であり、自己から切り離されている一方で自己に取り込まれる必要のある「他者」なのである。

 このように、産業革命以降の社会では自分の外の存在として「他者」が誕生した。この「他者」とは、人間にとっての自然、資本家にとっての労働力、自国にとっての外国のように、自己と対置される存在であり、無尽蔵な存在で、自己の内部に取り込んで利用するという意味で、自己にとって必要な存在である。そして、「他者」を自己化した上で、その外側にさらなる「他者」を探す必要が生ずる。この「他者」と自己の関係こそ、産業革命以降の西洋の心性なのだろう。

 この西洋の心性とCOVID-19パンデミックとの関連を考えると、SARS-CoV-2は「他者」として自己である人間と峻別される。しかし「他者」とは自己にとって取り込んで消化することが可能な存在であり、自己化の手段として感染予防策や治療方法が生まれ、将来的には撲滅されるだろう。そしてポスト・コロナの時代に新たなる「他者」が登場するのだろう。または西洋的発想からすれば、もしかすると我々は新たなる「他者」の登場を必要としているのかもしれない。

これまでの議論ではデフォーの『ペスト』以降の西洋の心性について触れたが、それ以前の心性とはどのようなものであったのだろうか。例えば一神教と多神教 神と人間の関係など、『ペスト』以前の社会には神の存在が大きく影響している一方で、神の性格は社会により異なる。また、14世紀以降には中性的な「神中心」的な考えから人間中心な社会を構想する人間中心主義が出現した。これは現代においては中世的思想からの脱却として評価されているが、この思想は人間以外の存在を一段下に見るような思想につながっている可能性もある。これらについても議論する必要があるだろう。

話題提供①「明治期感染症流行時の「患者隠蔽」 ーコレラ・赤痢流行報告書を手掛かりに-」
竹原 万雄(東北大学東北アジア研究センタ― 助教)

 江戸時代までの日本では、感染症に対する人々の対応は「鎮めるもの」であり「なんとかやりすごす」しかないものだった。しかし近代に入り、人々にとって感染症は「制圧する」対象となった。そのきっかけの1つは、欧米に倣った衛生行政の導入である。
 
 日本の衛生行政、特に感染症対策の制度化は、岩倉使節団にも同行した長与専斎を中心に行われた。特に感染症に関する法制度化のペースメーカーとなったのはコレラの流行である。当時の日本ではコレラは19世紀に初めて入ってきた新しい感染症であり、1877年以降コレラの流行が散発的に発生し、その高い致死率から大きな問題となっていた。このコレラの流行の繰り返しと共に、1877年には虎列剌病予防法心得が、1880年には伝染病予防規則が、1897年には伝染病予防法が施行されるなど、感染症流行防止のための法制度が整備された。そして特に1892年から1901年を中心に赤痢の流行が発生すると、明治初期の衛生行政はコレラと赤痢との戦いとなった。

 このようなコレラと赤痢の流行を受け、当時の内務省衛生局や府県は、コレラや赤痢の流行の特徴や貿易の概略、法令、統計情報をまとめた報告書として虎列剌病流行記事、赤痢病流行記事を作成した。これらの報告書には流行状況の把握や防疫効果向上のために数多くの調査項目が含まれており、かつ流行の経験を重ねるにつれより調査項目が増え、より詳細で具体的なものに変化している。そのため、これらの報告書は当時の感染症流行と対策の概要を知る上での重要な基礎資料である。

 1879年のコレラ報告書によると、「予防消毒の障害」は大きく2つあるとされる。1つは神仏祈願や祭事強行など前近代以来の旧慣習に依拠しておいる。もう一つは予防の重要性の誤解による患者の隠蔽である。患者隠蔽により、感染者がいるにもかかわらず適切な初動が遅れ、結果として感染が拡大する可能性がある。1890年のコレラ報告書には調査項目として「患者隠蔽による弊害」に関する記述が含まれているなど、大きな問題として認識されていたことがうかがえる。特に赤痢の場合、コレラよりも古くから日本に存在しかつ致死率も低いことから届け出を行うケースも多く、また隔離期間の長期化による家計への影響や隔離病院への忌避感から、コレラよりも患者隠蔽を助長したことが明らかになっている。熊本県や山梨県の報告書の記述によると、患者隠蔽の要因は経済・医療・行政・思想・偏見/差別・時間が上げられる。患者であることがわかると薬代や隔離による労働制限がかかるため経済的大きなダメージとなる。また、当時は隔離をするにしても施設や医師、看護師が不足していたため隔離病院が十分に機能しなかった。さらに、悪疫に罹るのは神仏の祟りであるという旧来の慣習の影響も見られた。また、感染した事実による村内からの偏見差別、さらには村内に感染を広めたのかもしれないという感染者自身の罪悪感も存在した。以上のような要因から人々は患者を隠蔽するようになり、明治三十一年の山梨県赤痢病流行記事では「流行の最大の原因が隠蔽患者にあることは、各県ともに同一」とまで記されている。このような患者隠蔽に対し、政府は隔離病院の改善や罰金、戸口調査、衛生組合の設置による相互監視と知識の伝達など、強制的な取り締まりや監視をベースとした法令整備を行った。衛生組合の設置は、衛生講話会の開催を通し人々の衛生思想の発達を狙い、実際に地域レベルの患者隠蔽の減少が見られたという報告もある。
 
 COVID-19パンデミックでは患者隠蔽は少なかったとされている。これには医学の発展や医療環境の整備、十分な情報発信のほか、日本特有の「自粛警察」や同調圧力などの相互監視が影響したと指摘されている。また、「偏見・差別とプライバシーに関するワーキンググループ」での事例検討とそれを踏まえた対策強化も患者隠蔽の防止につながったと考えられている。しかし、明治日本の感染症対策の進歩の国際比較を行った研究は存在せず、例えばアフリカでのエボラ出血熱の流行では明治時代の日本と同様の理由による患者隠蔽が多く見られるなど、「患者隠蔽そのものの要因」は未だに十分に克服されたとは言えない。将来のパンデミックに備え、過去から現在に至る患者隠蔽についての研究は今後の課題である。

話題提供②「流行性感冒はいかに恐れられたか ーロシアかぜからスペインかぜまでー」
川内 淳史(東北大学災害科学国際研究所 准教授)

 感染症対策の実施の立脚点は、感染症を正しく恐れることにある。この「正しく恐れる」とは、感染症に対して人々が感じる恐怖の念と、感染症に関する正確な知識の2つによって初めて成り立つ。「正しく恐れること」は感染症対策に極めて重要な意味を持つ一方で、これを実際に行うことはなかなか難しい。ここでは、近代日本が経験したロシア風邪とスペイン風邪という2つのパンデミックで見られた「恐怖」を比較する。

 ロシア風邪は1890年から1894年にかけて発生した、ヒトコロナウイルス(OC43)OC43またはA型インフルエンザウイルスによる感染症と考えられている。日本への伝播は1890年2月と考えられており、1890年4月中旬から下旬にかけて関東地方で急速に拡大、5月には市中感染が広まり、5月中旬には関東以外の地域にも感染が拡大したと考えられている。実は、この流行第1波の間ロシア風邪は人々にとって恐怖の対象とならなかった。なぜなら、感染者数は多くとも症状は重くないことが多く、医師の診察治療を受ける者が少なかったからである。そのため、ロシア風邪は日本社会の中で深刻な流行と認識されていなかった。むしろ、人々は当時流行していたコレラの方により大きな恐怖を感じており、「インフルエンザがコレラの前駆症である」などの考え方まで真面目に議論されていた。1890年11月中旬及び下旬よりロシア風邪の流行第2波が到来し東京で再び患者が発生し始めると、第2波は第1波より死亡率が高かったが行政的対応は十分に行われなかった。健康保険もなく誰もが医療を受けることが現実的ではない時代の中で、人々は初めてロシア風邪、すなわちインフルエンザへの恐怖を覚えたが、そのような人々が取り得る予防策は市販薬や民間療法であった。そして第2波では、ロシア風邪は伝兵衛風、電光風、鰯風など様々な名前で呼ばれるようになった。第2波の激烈さの中で、インフルエンザへの恐怖に様々な名前をつけることで、人々は恐怖を合理化しようとした。
 
 一方スペイン風邪はH1N1 A型インフルエンザウイルスによる感染症であり、1918年から1920年にかけてパンデミックを起こしたことで知られる。日本への伝播は1918年4月と考えられており、5月には大相撲夏場所で多数の力士が休場、6月や7月には全国の陸軍駐屯地で悪性感冒の流行がみられるなど感染爆発の前触れの動きが見られた。そして1918年9~10月には前流行と呼ばれる感染爆発が始まり、特に前流行の後半では高い死亡者、死亡率が記録された。日本政府は1919年2月の「悪性感冒の流行撲滅に関する件」を皮切りに流行対策に乗り出したが、内容は「インフルエンザは細菌性感染症である」という前提のもと、密集を避けてマスクやうがい、ワクチン接種を奨励するものだった。また、正確な知識の普及啓発のために流行性感冒予防心得も発表した。1920年年明けには後流行と呼ばれる感染拡大が起こったが、ここでも政府はマスクを徹底させワクチン接種を奨励した。また、マスク等の自発的な対策を促すために啓発ポスターが使用された。この啓発ポスターの意義は、インフルエンザに対する恐怖のイメージを正しい知識に乗せてコントロールすることにある。恐怖のイメージを刺激するものとして、このポスターには「他者」が描かれている。この「他者の存在」は「他者との関係を自己を律する規範とする」という日本社会の特質を上手く利用しており、自発的対策が自分のためだけでなく他者、すなわち社会のためでもあることをビジュアルで示すだけでなく、同時に自発的対策を怠ることによる他者の眼という新たな恐怖がイメージを形成しているのである。見る人の恐怖を刺激し、同時に正しい情報も見せることで、このポスターはインフルエンザを「正しく恐れる」よう人々をコントロールしたのである。
 
 繰り返しになるが、「正しく恐れる」とは正確な知識と適切な恐怖コントロールの2つによって成り立つ。では人々がCOVID-19パンデミックを「正しく恐れる」ことができたかを考えると、知識の面では反ワクチン派や「コロナはかぜ」などオカルト的反知性主義が出現したが、その影響は限定的であった。恐怖の面では自粛警察や他者の視線への恐れなど、感染症自体に限らず、隔離や世間からの制裁を恐れた。しかし、大衆化、情報化が進んだ現代社会では、「正しく恐れる」ことが困難になっているのではないだろうか。そして「正しく恐れること」が感染症対策として必要であるならば、スペイン風邪流行時と現代との社会の相違点を踏まえ考えることが歴史学の今後の課題だろう

ディスカッション
●欧米の「感染症は他人事」という意識

 欧米での感染症の流行の原因の1つは、感染症を他人事と考え国内体制の整備を怠っていた事実がある。例えば19世紀中盤のコレラの流行についても、当時の「コレラはアジアの感染症でありペストの流行も過去の話である」という思い込みがインドからの流入と大流行を招いた。20世紀のスペイン風邪流行時も、コレラやペスト、黄熱病の流行の克服からくる「感染症は制御できる」という慢心が対応の遅れを生んだ。そして21世紀に入りSRASやMARS、エボラ出血熱が流行する中で、欧米はやはり「感染症は海外で起こる」という思い込みから国際支援には多額の援助をするものの国内体制には全く投資を行ってこなかった。そのような状況でCOVID-19パンデミックが発生し、欧米は制御不能に陥ったのである。以上のように、感染症は「外国で起こるもの」であり、「制御できるもの」であるという意識が欧米での感染症対策強化の障壁となり、そのたびに新たな感染症の流行を招いたのである。

 そもそも、およそ18世紀以前まで西欧は技術や経済、社会などおおくの分野でアジアに後れを取っていた。この状態の逆転を生んだのが産業革命であるが、産業革命が西欧で起こったのも、近くに炭鉱やアメリカという巨大市場があったという偶然によるものである。しかし、この偶然により、西欧こそが世界の中心であり、アジアは遅れているという西欧の意識が生まれた。そして感染症も「遅れているアジア」の問題であると思い込むようになった。

 COVID-19パンデミックの初期、欧米は自国でも多くの死亡者が発生することを予想していたが、これは実際には「中心部のスラム街や移民労働者の間では大量の死亡者が発生するが、富裕層は郊外へ避難し害を免れるだろう」という安易な予測だった。しかし実際には感染は富裕層にも広まり、慌てた各国はロックダウンなどを選択したものの初期対応には完全に失敗した。ここにも、感染症は他人事という意識が影響している。

●感染の隠蔽や「ただしく恐れる」からみたJACSIS/JASTIS研究の紹介

 COVID-19パンデミックを巡る住民の生活や社会の実態については、JACSIS研究やJASTIS研究の中で既に調査が行われている。これらの研究では継続して調査が行われているため、縦断的な研究が可能である。調査項目には患者の偏見・差別やワクチン忌避、陰謀論など、今回の話題提供でも取り扱われた患者隠蔽や「正しく恐れる」に関わる内容も多く含まれており、今後のさらなる活用が期待される。

●欧米とは異なる日本社会のあり方

 日本におけるCOVID-19パンデミック下の感染対策は主に「自粛」であり、強制力を伴わないにもかかわらず行動抑制に成功した。ここには、日本人の持つ「他の人に迷惑を掛けたくない」という心理が働いたのではないかと考えられている。これは、自分が感染するかどうかが一番の関心事である欧米では考えられないことである。歴史的にみても、日本人は他者との関係性の中で生きていた。日本人にとっての感染症への恐怖にはこの「関係性」が損なわれることへの恐怖も含まれているのだろう。このような社会のあり方の根本的な違いこそが、人文社会科学から見た日本と欧米での感染症対策のあり方の大きな違いなのだろう。

 しかし一方で、現代日本では欧米のような「自己責任論」が広まり、また他者との関係性も徐々に失われている。事実、今回のCOVID-19パンデミックの初期には東京や大阪など地域のつながりが希薄となった大都市圏の死亡が多く、齢化が進み脆弱と思われていたものの地域のつながりが残っている地方では死者は少数だった。10年後、日本の「他者との関係性」は今以上に希薄になると予想される。そのとき、COVID-19パンデミックと同じ感染対策では対応が困難だろう。

●正しく恐れるために

 ワクチンや治療薬の開発、疾患そのものの医学的リスクなど、感染症の科学的なリスクを公表したとしても、人々の恐怖の感じ方はまた別の問題である。100%正しい科学的知識の提供だけで人々の不安が消えることはない。感染症を正しく恐れるには適切な恐怖のコントロールが不可欠である。例えばスペイン風邪流行時には、政府は啓発ポスターを利用し人々の「他人の目の恐怖」を刺激することで恐怖のコントロールにある程度成功したと言える。しかしこれは情報ルートが絞られていたから戦前日本だからこそ可能だったのであり、現代のような情報が錯綜する社会では当時とは次元の異なる難しさがある。今後の社会における恐怖のコントロールの方法について考える必要がある。

●江戸時代が秘めていた可能性

 産業革命以降の200年は西欧を中心に社会が近代に突き進む時代であった。その一方で、日本にとっては典型的な西欧とは違う形で近代化への土壌が形成された時代でもある。例えば、当時の錦絵からは疫病神のイメージがより弱々しく、薬で戦える存在へと変わったことがうかがえる。また、封建的な身分制度を打ち破る動きがみられるようになったのもこの時代である。さらに、一般的には日本の近代化はペリーの来航をきっかけに、いわば外からの圧力で進んだと考えられがちだが、それ以前から日本は海外の情報を仕入れ対応を考えていた。江戸時代は決して停滞の時代ではなく、西欧とはまた違う近代化の可能性を持った時代なのである。江戸時代という時代を今一度見直すべきではないだろうか。

●スペイン風邪と戦争の相互関係

 スペイン風邪は第一次世界大戦と深い関係がある。1918年の第一次世界大戦の動員がスペイン風邪のパンデミックを生んだ一方で、東部戦線においてスペイン風邪の流行によりドイツ軍の動員が困難になったことが第一次世界大戦の終結の1つの要因となっている。このようなスペイン風邪と第一次世界大戦の相互関係が日本で見られるのか、歴史や社会、政治的にどのような影響を持っているのか、考察する必要がある。

●ヨーロッパにとっての地中海

 カミュの『ペスト』は地中海にあるオランが舞台となったが、世界史的に見ると地中海はヨーロッパにとって自己とアジアやアフリカなどの他者を分ける緩衝圏としての機能を持っていた。19世紀前半の地中海沿岸地域での伝染病、特にコレラの流行を受け、感染症の蔓延防止を目的としてコンスタンチノープルなどオスマン・トルコ領内の主要都市に国際衛生理事会が設けられた。これは国際公益の実現を目的とした初期の国際組織の1つであり、現在のWHOのルーツの1つとなっている。しかしこの実態は、「他者」であるアジアやアフリカの感染症が「自己」であるヨーロッパに入り込むことの防止が淵源にあったのである。ここにも、産業革命以降に誕生した「他者」の意識が存在する。このように、世界史的な自己と他者の関係や真の意味でのグローバル化の意味内容を問うために、歴史を研究する必要があるだろう。

●災害対応のために必要な周りの目

 日本人に行動変容を促す場合、自分にとってどうなのかではなく周りの関係にとってどのような意味を持つのかを指摘することが効果的である。この「周りの関係」とは、感染症対策の場合は同じ空間にいる他者を指し、現にスペイン風邪流行時は「周りの目」を利用した啓発ポスターを使用していた。しかし感染症に限らないほかの災害を含めて考えると、「周りの関係」とは同じ空間だけでなく決して会うことのない時間軸上の他者も想定される。例えば、かつて建物は個人の所有物でなく「家」のものであり次の世代に受け継ぐものるという意識があったため、家を守るために耐震補強を行うことは当たり前だった。日本人は他者との関係の中で自分の行動を決めるという視点を持つことが、災害避難や行動変容が必要になったときに重要だろう。

●パンデミックと監視社会

 今回のパンデミックを契機に、アジアの国々は強い監視社会に移行した。特に中国は防犯カメラやトラッキングシステムのさらなる向上により監視社会が完成したと言われている。中国以外にもシンガポールや韓国などアジアの多くの国が監視システムを発達させた。そのため50年後には、今回のパンデミックが「今日の監視社会の始まり」になるのではないかとまで危惧されている。

 日本では、明治時代には警察官吏や衛生組合による監視が行われていたものの、時が移るにつれその性質は変化し、COVID-19パンデミック下の監視は自粛警察など極めて緩いものにとどまった。日本はアジアの国々のように政府主導の強い監視体制に移行しなかったという点が大きな特徴だろう。しかしその一方で、SNS等を通して自らを監視の目にさらし、自ら自分を監視するというより異質な監視社会が成立しているのかもしれない。

●日本はスイスチーズモデルに成功したのか

 欧米は問題に対して単一の解決策にこだわる傾向がある。そのため今回のパンデミックでも「ワクチンがあれば大丈夫」など1つの劇的な解決策に頼り、結果として壊滅的な被害を被った。いわゆるスイスチーズモデルによれば、パンデミックのような未知の問題に唯一の正解はなく、どの解決策もどこかに不完全な箇所がある。しかしコレラを組み合わせることで、全体としてより完全なものへと近づく。日本は近代化しているにもかかわらず、神仏や伝統文化などが色濃く残っており、世界で唯一「神話の社会」が生きていると言われている。そのようないろいろなものが混ざり合っている日本では、このスイスチーズモデルがある程度製鋼したのではないかとも考えられる。

最後に

『帝国の疫病―植民地主義、奴隷制度、戦争は医学をどう変えたか』(原著ジム・ダウンズ)では、一般的には現代の疫学の起源は19世紀イギリスのコレラ流行に対するジョン・スノーの研究にあるとされるが、これは帝国主義国家が自らの暗部を隠蔽するために作ったナラティブであり、実際には奴隷輸送時の生存率の統計や戦争時の疾病発生など、植民地や奴隷制度、戦争の中で「他者」を収奪する形で成り立ったものであると批判している。このように歴史上定説とされてきたナラティブの影に隠れ、排除されたナラティブを検討することがヨーロッパ中心主義を脱却する1つの糸口であり、非常に重要である。パンデミック対策を例にとると、ワクチンの開発を唯一の正解とするような欧米主導の現在の枠組みは今後の未知のパンデミックで機能するとは言いがたい。単一の対策に頼るような欧米中心のあり方を見直さなければ、次のパンデミック乗り切れないだろう。

 しかし単にヨーロッパ中心主義を批判すれば済む問題ではない。歴史を学び現代、近代、そして日本を相対化し、真の意味のグローバル化とはどのようなものか考える必要がある。その中で日本の独自性が見えてくるのではないだろうか。

 また、パンデミック対策の最大の敵はtolerance levelが上昇することであることを忘れてはならない。パンデミック初期には人々は感染者や死亡者の増加にセンシティブに反応するが、流行が長期化するにつれてそのような非日常がいつしか日常となり、誰も気にとめなくなってしまう。例えばコレラやSARSの流行では短期間に死亡者が集中したため忘れられにくく、多くの教訓が学ばれた。しかしCOVID-19パンデミックは長期化したため人々のTolerance levelが上昇して感覚が麻痺し、当初皆が感じた危機感は忘れられている。このTolerance levelについて、今後検証が必要だろう。

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