第7回TUPRePクロストーク報告(CILP共催)
第7回TUPRePクロストーク報告
「グローバルヘルス・ガバナンスに関する最近の動向」
開催日時 | 2024年8月21日(水) 18:00-21:00 |
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開催方式 | 対面とオンラインのハイブリッド形式 |
対面会場 | 東北大学星陵キャンパス・6号館1階・講堂 |
司 会 | 坪野吉孝(東北大学大学院医学系研究科 微生物学分野 客員教授) |
日本語版記録 | 島野賢一(東北大学医学部医学科 4年) |
参加者 | 35名(対面20名、オンライン15名) |
・東北大学大学院法学研究科 教授(国際法)西本健太郎
「グローバルヘルス・ガバナンスの課題と進展」
・東北大学理事・副学長 東北大学国際法政策センター長 植木俊哉
・東北大学医学系研究科 教授 押谷仁
「Mpoxに対するPHEICなど」
東北大学大学院法学研究科 教授(国際法)西本健太郎
第77回WHO総会(2024年5月~6月)では、国際保健規則(IHR)の改正とパンデミック条約の作成が議論となった。これらはCOVID-19の経験を踏まえ、次のパンデミックへの備えを強化するための重要な動きである。
〇IHRの改正 IHRは、疾病の拡大やその前兆が確認された場合、発生国に早期の情報提供を義務付ける規則である。これにより、事象を国内で隠蔽せず国際社会に周知し、WHO等からの支援を受けることができる。また、他国の過剰な対応を避け、国際交通や貿易に与える影響を最小限に抑えることも目的としている。
IHRでは、全ての国が、事象を検知し対処に必要な公衆衛生上の能力(中核的能力)を獲得し強化することが義務付けられている。通報を受けたWHOは「国際的に懸念される公衆衛生上の緊急事態(PHEIC)」に該当するかを判断する。必要に応じて、法的拘束力のない勧告が発出されるが、COVID-19の際には多くの国が独自の措置を取ったことが問題視された。
IHRの改正案は総会でコンセンサスにより採択された。改正の主な内容は以下の5つである。
1. パンデミック緊急事態(Pandemic Emergency)の導入
従来のPHEICに加え、より重大な事態が発生した場合に「パンデミック緊急事態」と認定できる制度が設けられた。この重大性の基準としては、①地理的に広範囲に感染が拡大しているか、②保健システムの対応能力を超えるか、③国際交通貿易を含む実質的な社会経済的混乱を引き起こすか、④迅速、衡平かつ強化された国際的対応が高いレベルで必要かの4項目がある。
ただしこれは、重大性に応じた宣言としての意味は持つが、具体的な対応措置は従来の勧告と大きく変わらない。パンデミック緊急事態の認定が行われても、WHOや加盟国に特別な権限が発生するわけではなく、強力な措置を取るための新しい手続きが導入されたわけでもない。
2. 原則への「衡平」と「連帯」の追加
IHRの原則の規定に、「衡平および連帯を促進する」という文言が追加された。これは理念的な要素が大きいが、具体的な制度にもつながる部分がある。この改正は、COVID-19パンデミックで途上国が直面したワクチン等の関連保健製品への衡平なアクセスの問題を受けてなされたものである。パンデミック時には先進国と途上国の間でリソースへのアクセスに大きな差があった。この改正により、IHRには衡平なアクセスと国際的な連帯を推進することが明示的に記載された。
また、これに関連して、PHEICが宣言された際に、WHOが関連保健製品への迅速かつ衡平なアクセスを促進する役割を担うことが第13条で明記された。達成する具体的な方法として、ワクチン等の関連保健製品の利用可能性・アクセスの評価、生産の地理的多様化の支援、製品情報の共有、研究開発の支援などが挙げられている。
さらに、参加国相互の協力と援助の義務を強化すると定めており、特に途上国のニーズに応じた支援が強調されている。ただし、この支援は各国の「適用される法および利用可能な資源に従い」実施されるものであり、必ずしも強制力のあるものではない。
3. 疾病の国際的拡大への「備え」の強調
IHRの目的の規定に「疾病の国際的拡大に備える」という点が追加された。これまでは事象の早期検知や通報が主な焦点であったが、理念的なレベルで「備える」ことが強調され、具体的な条文でもサーベイランスや公衆衛生対応の規定に「防止」が追加された。また、各国に求められる最低限のキャパシティのリストにも予防的な能力が多く追加された。
4. 「調整資金メカニズム」の設置
「調整資金メカニズム」が新設された。参加国、特に途上国の中核的能力の獲得・強化・維持に必要な資金を調整する仕組みである。途上国は新しい資金メカニズムの設置を求めたが、既存の国際的な援助スキームを効率的に活用する方向で合意された。このメカニズムの目的は資金のレバレッジや最大化を図ることである。具体的には、ニーズや資金不足の分析、複数のファンディングスキーム間の調整と一貫性の促進を行う役割を担う。この改正では、目的と機能の大枠のみが規定されており、実施の運用は今後の議論に委ねられている。
5. 「実施委員会」の設置
「IHRの実施のための参加国委員会」が新設された。これには、ルールがどれだけ遵守され機能しているかを評価するための仕組みが必要だという議論が背景にある。実施委員会は、特にIHR44条(規則の実施に関する参加国の協力・援助義務の強化)および44条の2(調整資金メカニズム)に関する実施を促進することを目的としているが、実際の運用は今後の議論次第である。
委員会は、各国がIHRを効果的に実施するための学習やベストプラクティスの共有が主な役割であり、2年に1度全参加国で開催される。また、調整資金メカニズムの詳細もこの委員会で決定される予定である。COVID-19の対応においてIHRが十分に機能しなかったことから、遵守強化の議論が行われたが、今回の改正では徹底的な遵守強化のための具体的な措置は盛り込まれなかった。あくまで実施委員会は促進的、協議的で支援的な役割に留まり、懲罰的な機能は担わないとされている。
以上のように、IHRの改正においては、PHEICとなりうる事象への対応能力の獲得に関する機能が維持され、「パンデミック緊急事態」の認定制度や予防・備えも明確に規定されるようになった一方で、非発生国による過度な措置の回避に関する大きな修正はみられなかった。改正は途上国の態勢強化への配慮が中心であり、先進国に新たな負担はなく、新たなメカニズムの実効性は今後の議論に委ねられている。
〇パンデミック条約交渉
パンデミック条約については、交渉妥結に至らず、交渉の延長が決定された。パンデミック条約でも、衡平(equity)が重要視されている。条約の目的として、衡平と原則に基づくパンデミックの予防、備え、対応を行うと規定されている。パンデミック関連保健製品への平等なアクセスや、研究開発、技術・ノウハウの移転、生産、流通の協力・支援の強化や新たな制度の導入が途上国から主張されている。
特に対立が見られるのは「病原体アクセスおよび利益配分(PABS)システム」であり、パンデミックにつながり得る病原体の入手とそれに基づく利益の分配を巡って議論している。
また、各国のパンデミック対策の体制についても規定されており、日常的なサーベイランス計画の策定が求められているが、途上国にはこれが負担となることが懸念されている。条文では「国家の能力や国内的・地域的状況に鑑みて」等の限定が設けられている。
交渉における大きな課題は、先進国と途上国の間の折り合いであり、特にPABSシステムに関する合意がない限り、条約の成立は難しいとされている。今後の条約交渉では、IHRとの関係性も含めて議論が進められる予定である。
●植木教授のコメント
西本教授が示した交渉の課題には公衆衛生特有の論点もあるが、国際規則の制定でも類似の現象が多く見受けられる。特に資源配分の問題が顕著である。途上国は先進国がパンデミック時にワクチン開発などで不当な利益を得ているのではないかと考えていて、彼らは公平なワクチン分配を求める国際システムの構築を目指しているが、先進国は民間企業への義務の強制や資金提供に対する要求を受け入れにくい。
「共通だが差異ある責任」という概念は、国の状況に応じた義務の違いを認めるもので、途上国は実質的平等を実現するために形式的な不平等が必要と考えている。一方、先進国はこの論理に基づく国際立法を受け入れるのが難しい。パンデミック条約がまとまらなかった背景には、こうした哲学的対立が存在する。IHRには、加盟国が特定の条項に従えない場合に通告で拘束を免れる仕組みがある。もしWHO憲章やIHRが受け入れられなければ、国はWHOを脱退する選択肢をもつ。トランプ政権時代のWHO脱退宣言がその例で、こうした現象は公衆衛生だけでなく、地球環境問題や温暖化、海洋資源開発にも共通してみられる。IHR改正やパンデミック条約交渉にも同様の対立が根底にあると感じている。
●話題提供「Mpoxに対するPHEICなど」
東北大学医学系研究科 教授 押谷仁
〇Mpoxに対する緊急事態宣言
先日、Mpox(サル痘)に対してPHEICが宣言された。これは2022年にも一度宣言され、その後解除されたが、再度の宣言となった。
Mpoxは1960年代に初めて確認されて以来、主にコンゴ民主共和国で流行してきた。2022年以降は広範囲に感染が広がり、日本でも感染者が確認された。主に男性の同性愛者コミュニティを通じて広がり、感染者は約10万人に達したが、死亡者は200人余りであった。日本でも1名が亡くなったが、この方の死亡はHIV等の基礎疾患を抱えていたためであるとされており、Mpoxそのもので亡くなった人は少ないといわれている。
2022年末からコンゴ民主共和国では大規模な流行が続いており、少なくとも2万人以上が感染し、約1200人が亡くなったとされる。現在の流行は2022年のものとは異なり、女性や若い子供の感染が増えている。特にコマーシャルセックスワーカーを介して広がり、子供たちも多く感染し、死亡率が上昇している。
この違いはウイルスの型によるもので、2022年に流行していたのはclade IIというウイルスであり、致死率が低いことが知られている。一方、現在流行しているのはclade
Iというウイルスで、病原性が高く、致死率は10%に上る可能性がある。このウイルスはコンゴ民主共和国を中心に広がっており、最近ではスウェーデンでも感染者が確認された。
Mpoxに対しては、天然痘ワクチンが有効である。天然痘ウイルスとMpoxウイルスには交差免疫があり、ワクチン接種により一定の予防が可能である。日本では天然痘ワクチンが数百万人分備蓄されており、コンゴ民主共和国への輸出が検討されている。しかし、有効率は約70%とされており、特に病原性の高いclade
Iのウイルスに対しては不十分である可能性がある。現在、Mpoxに特化したワクチンの開発が進められているが、現時点では天然痘ワクチンが唯一の選択肢である。
〇パンデミックに対するワクチン開発の課題
「Access to genetic resources and Benefit Sharing(ABS)」に関する議論が難航し、パンデミック条約は成立しなかった。途上国は強い主張を行い、特に英国系の医学雑誌では先進国や製薬企業が批判されている。しかし、条約が成立した場合の影響も考慮する必要がある。
パンデミックワクチンは必ずしも高い利益を得られるものではない。実際に成功したのはBioNTechと提携したPfizer、Modernaの2社のみであり、多くの企業は実用化できなかった。AstraZenecaやJ&Jのワクチンも需要が減少し、日本ではほとんど使用されなかった。Pfizer、Modernaも2023年にはワクチン部門が大きな赤字を出し、現在Modernaは癌研究にシフトしている。
GSKの新たな結核ワクチンの開発が期待されているが、資金が確保されているにもかかわらず臨床試験には至っていない。GSKのCEOは、現在優先順位が高いのは帯状疱疹ワクチンであると述べている。帯状疱疹ワクチンは高齢者向けのワクチンの大きな市場をもつため、そちらに注力している。
パンデミックワクチンや結核ワクチンは途上国に安価で提供されるべきだが、その場合、製薬企業は利益が見込めず撤退する可能性が高い。リスクが高い中で、もしパンデミック条約のようにプロダクトや利益の一部を提供しなければならない場合、企業が事業を継続するのは難しいという見解も理解できる。
〇パンデミックの定義の問題
2009年にWHOが発表したパンデミックに関するガイダンスには明確な定義があった。この定義では、WHOの6つの地域事務局のうち2つの地域でコミュニティトランスミッションが発生すればパンデミックとみなされる。しかし、実際には無理があるとの意見が出ていた。例えば、ASEAN諸国は二つの地域に分かれているため、ラオスで感染が始まり、タイに広がった場合には定義上パンデミックとなるが、その呼称には疑問が残る。
2009年にはH1N1インフルエンザウイルスによるパンデミックが発生したが、死亡者数は少なく、どのタイミングでパンデミックを宣言するかが問題となった。ガイドラインに従えば、5月初めにはアメリカとメキシコに続いてスペインで感染者が報告されていたため、定義に従えば宣言が求められたといえる。
さらに、5月18日には日本の大阪と兵庫で高校生の感染者が確認され、パンデミック宣言が検討されたが、日本政府の反対により宣言は見送られた。結局、6月11日にパンデミックが宣言された際には感染はすでに世界中に広がっていた。この遅れは、パンデミックの宣言が自動的に国境封鎖などの措置を引き起こすために、各国との交渉が必要であったことが一因と考えられる。
その後、パンデミックの定義は曖昧になり、2020年3月11日にテドロス事務局長がCOVID-19のパンデミックを宣言した際も非常に曖昧な表現が用いられた。特に2010年のエボラウイルス感染症やCOVID-19では、PHEICの宣言が遅れたことが問題として指摘されている。COVID-19のPHEICは2020年1月30日に宣言されたが、その1週間前に最初の機会があったにもかかわらず見送られ、その後テドロス事務局長は中国訪問を経てPHEICを宣言した。
WHOの対応の遅れに関しては、多くの報告書や委員会で批判があったが、現在は主にパンデミック緊急事態の議論に焦点が当てられている。
●ディスカッション
〇コンセンサス方式の意義と課題 IHR改正はコンセンサス方式で採択された。コンセンサス方式とは、多数決ではなく、舞台裏で交渉を行い、妥協点を見つけて合意を形成する方法である。通常、条約やルールは各国が賛成、反対、修正提案などの立場を明らかにして作られるが、コンセンサス方式では反対意見がないことを確認し、全体としての合意を目指す。この方法により、各国の利害対立を表面化させず、玉虫色の妥協が可能となる。
IHR改正においても、調整資金メカニズムを作ることは決定されたが、その詳細な内容や実施方法は将来的な議論に委ねられた。途上国寄りの枠組みになるか、先進国の国益が優先されるか等は今後の協議次第であり、このような議論の先送りが合意形成の鍵となった。
しかし、パンデミック条約に関しては、製薬企業の利益や先進国・途上国の要求が対立し、妥協が困難であったため、合意が先送りされたと考えられる。IHR改正が実現した一方で、パンデミック条約がまとまらなかった背景には、こうした各国や利害関係者間の調整の難しさがあるといえる。
〇「人権」「衡平」の解釈
IHRの原則における衡平・連帯の理念では、「人の尊厳、人権および基本的自由を完全に尊重」するとあるが、この「人権」には、移動や行動の自由といった従来の人権に加え、より新しい人権概念である健康への権利(right
to health)も含まれると考えられる。また、「衡平」の解釈には幅があり、IHRにおける衡平は国家間でのリソースの公平な分配を意味するが、パンデミック条約においては、国際的な疾病拡大に対する健康への権利が重視され、個人間の不公平を解消しようとするよりラディカルな考え方が含まれていると指摘された。
WHOが国際社会で受け入れられてきた根本的な理由は、健康と公衆衛生に関わる問題に対してルールを形成し、その専門性を活かしてきた点にある。人権の問題は、それぞれの専門機関が専門家の知見を集め、ルールを形成する仕組みが国際社会に存在する。
〇IHRの法的拘束力の背景と実態
パンデミック条約は独立した条約であり、各国が批准するかどうかを決めることになる。採択はコンセンサスによって行われるが、その後の批准については各国の判断次第である。メリットがないと判断されれば、批准されない可能性がある。
一方、IHRはWHO憲章に基づいて採択されており、基本的にWHO加盟国すべてを拘束する形である。通常、国際組織が採択する決議は勧告的効力しか持たないが、IHRには法的拘束力があると合意されている点で、IHRは国際法の中でも特異な存在である。加盟国はIHRの原則として拘束力を認めなければならないが、特定の条項については条約でいうところの留保をすることも可能である。
歴史的に見ると、WHOの前身である国際衛生会議は1851年から続いており、初期は感染症の取り扱いについての議論が行われていた。WHO設立時の文書には、国際的に広がる感染症への対応が目的として記されており、これが強制力に関わる要因と考えられる。
国際保健分野で条約やルールが作られる背景には、国際公益の存在がある。パンデミックは国民の生命に関わるため、どの国にとっても共通の利益がある。したがって、国際機関に強力な権限を付与するインセンティブが働く。
しかし、近年は途上国へのワクチン支援において国家や企業の利害が対立することが多くなり、共通のルール作りが難しくなっている。このような背景により、国際保健分野におけるルール作りの基盤が薄れ、対立が浮き彫りになっていると指摘された。
〇国際法を効果的に活用する方法について
国際法の原則として、条約上の義務を国内法で回避することはできず、各国は批准した国際条約に基づく義務を履行しなければならない。しかし、義務の履行方法は各国に委ねられているため、履行状況には国ごとにばらつきが生じることがある。IHRの正式な文書には規定されていないが、各国にはIHRに従った国内法の整備が推奨されている。しかし、実際に整備に至ったのは約半数の国に留まった。
健康格差の問題については、国際的なプレッシャーを利用して条約の履行を推進できる可能性がある。遵守委員会の設置など、国際的なプレッシャーをかける手段については議論されている。IHRの枠組み内では直接的な手段は難しいが、WHOや第三者的な委員会のレビュー制度を活用するなどの補完策が考えられる。条約の履行を促すためには、国別の審査や報告を通じて国際的な公表を行い、各国政府にプレッシャーをかけることは有効かもしれない。最近の条約は柔軟性を持たせ、時代の変化に応じた履行の仕組みを構築する方向に進んでおり、WHOでもこうした工夫の余地があると指摘された。
条約や規則の履行状況を評価する委員会の運営や構成に関しては明確な正解はない。各国が遵守しないのは、意図的ではなく、リソースや能力の不足に起因することが多いため、プレッシャーをかけるよりも協力的かつ促進的なアプローチの方が現代的なトレンドである。
さらに、条約や国際法の実行において、時代によって国内管轄権の範囲が異なる。評価委員会が効果を発揮するためには、専門性と政治的公平性のバランスが重要である。各国の代表や専門家の参加を通じて、説得力を高めることが求められる。
一方、評価の信頼性についても疑問が提起されており、各国の中核的能力を評価するIHR の Joint External Evaluation(JEE)やグローバルヘルスセキュリティインデックスのスコアと、実際のCOVID-19パンデミックでの死者数の結果に逆相関が認められた点が指摘された。
〇Access to genetic resources and Benefit Sharing(ABS)とワクチン開発
本来、病原体についても生物多様性条約のABSの適用対象となる。しかし、パンデミック条約では問題となっている病原体をこの規定から除外し、独自の制度を設けることが検討されている。特に、病原体に基づいて開発されたワクチンの一部をWHOが管理・配分する仕組みが提案されており、配分率として1割から2割が提案されている。しかし、これに対して製薬企業は強く反対しており、条約が成立するとワクチン開発が遅れる可能性があると警告している。
COVID-19パンデミック時にはゲノム情報が早期に公開されたことがmRNAワクチンの迅速な開発につながったが、ABSの議論ではゲノム情報も規制対象とされる可能性があり、これが実施されると迅速なワクチン開発が困難になると懸念されている。この点は、パンデミック時におけるワクチンの迅速な供給に重大な影響を与える重要な問題である。
〇WHOにおける非国家主体の参加機会
IHRは国家に対して拘束力を持つものであり、非国家的組織について直接規定しているような条文は存在しない。WHOの正式なメンバーになれる主体は国家に限定されているが、非国家的組織やNGOがWHOの会議にオブザーバーとして参加したり、情報提供者として活躍したりする場があり得るという指摘があった。
〇グローバルヘルス・ガバナンスの様々なステークホルダー
ワクチン開発の現状を踏まえ、主権国家や国際機関に加えて、製薬企業、フィランソロピー、NGO、専門家団体の役割と課題を議論した。
製薬企業はリスクを負ってワクチン開発を進めるが、Modernaの例では、公的資金が投入されたにもかかわらず特許を独占し、他国への供与を拒否した。南アフリカがリバースエンジニアリングで独自にワクチンを開発し、NIHの研究者が協力した事例もある。また、Pfizerは他のワクチンと比較する臨床研究を拒否したという指摘もある。オックスフォード大学とAstraZenecaのワクチン開発も、当初は特許フリーを目指していたが、ビル・ゲイツ氏の反対により商業化が推進されたとされる。このように、製薬企業には利益追求と公共利益との間の葛藤がみられる。
ビル・ゲイツ財団は、WHOに匹敵する規模の予算を持ち、世界の保健政策に大きな影響を与えている。しかし、フィランソロピーは国家機関ではないため、アカウンタビリティが不十分な側面があり、特定の問題に集中し過ぎることで他の課題を軽視するリスクがある。
国際法は主に主権国家を規律するものであり、多国籍企業に対して法的義務を課すことは難しいが、ソフトローとしての行動指針(コード・オブ・コンダクト)策定が選択肢の一つとして挙げられる。パンデミック条約交渉では、公的資金投入や途上国支援の義務化についても議論されているが、公的資金をトリガーとして企業にどのような措置を課すかが検討されているものの、最終的な合意には至っていない。国がワクチンを買い上げる際、途上国向けに一定割合をリザーブする提案もなされている。
交渉は国の代表が密室で行ったため、NGOや専門家の参加が不十分だったとの批判もある。グローバルヘルス・ガバナンスにおける様々なステークホルダーの存在が認識されているが、最終的な合意は国家間の決定に依存しており、この点も課題として共有された。
〇おわりに:人材育成の重要性
日本のグローバルヘルスにおけるプレゼンスが低下している。ワクチン提供や国際協力の場において、日本が専門的な発言力を持つためには、アカデミアや専門家の育成とその活用が不可欠である。特に、日本の専門家が国際舞台で積極的に発言できるような環境整備と人材育成が急務である。
国際交渉の場でも、日本の影響力は相対的に低下している。しかし、交渉での存在感は必ずしも国力に依存するわけではなく、専門性や斬新なアイデアを持つ中小国の人材が重要な役割を果たす場面も多い。したがって、日本が専門知識を蓄積し、国際社会で貢献できる体制を構築することが必要である。
日本の国際的な影響力はこれまで経済力に大きく依存してきたが、経済的な力が低下したとしても、日本人の特性である誠実さや高度な専門性を磨き、これらを活かして国際社会で活躍できる人材を育成することが、今後ますます重要となる。