第8回TUPRePクロストーク
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第8回TUPRePクロストーク報告
「医学史研究の立場からみた感染症」
第8回TUPRePクロストーク報告
「医学史研究の立場からみた感染症」
開催日時 | 2024年11月27日(水) 18:00-21:30 |
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開催方式 | 対面とオンラインのハイブリッド形式 |
対面会場 | 東北大学星陵キャンパス・6号館1階・講堂 |
司 会 | 坪野吉孝(東北大学大学院医学系研究科 微生物学分野 客員教授) |
日本語版記録 | 島野賢一(東北大学医学部医学科 4年) |
参加者 | 79名(対面30名、オンライン49名) |
「19世紀ロンドンと東京のコレラ流行の比較―川と運河と日常生活の水利用について」
東京大学大学院人文社会系研究科 教授 鈴木晃仁
東北大学大学院経済学研究科 教授 小田中直樹
「日本史学の立場からのコメント-仙台を事例に-」
東北大学災害科学国際研究所 准教授 川内淳史
東北大学東北アジア研究センター 助教 竹原万雄
●「19世紀ロンドンと東京のコレラ流行の比較―川と運河と日常生活の水利用について」
東京大学大学院人文社会系研究科 教授 鈴木晃仁
〇導入:医学史研究の特徴 「古い医学史」と「新しい医学史」
「古い医学史」は、20世紀初頭より優れた医師に焦点を当てて研究され、特にドイツを中心に多くの成果を残した。「新しい医学史」にとってもこれらは重要な基盤である。
1970年代に確立された「新しい医学史」は、医学や医療の歴史だけでなく、社会的・文化的背景を幅広く検討する点が特徴である。この分野は総合史や社会史と密接に関連しながら発展してきた。重要な概念として「ヒポクラテスの三角形」があり、疾病、患者、医療者の相互関係によって医療が成り立つとする。この三者の背景には法律、政策、経済、科学、技術、環境、思想、文化といった要素があり、「新しい医学史」はこうした包括的視点を基盤としている。
〇コレラと歴史的背景
コレラは、1884年にロベルト・コッホが発見した Vibrio cholerae による急性経口感染症で、水や食物を介して感染する。もとはガンジス川周辺の風土病であったが、1817年にイギリス兵士を通じて世界に広がり、現在も第7波の流行が続いている。
19~20世紀初頭、コレラはヨーロッパ、アメリカ、日本を含む多くの地域で大流行し、その克服が進んだ。この時代は革命や民主主義の導入、産業革命、国民国家の形成、植民地政策など社会経済の転換期であり、これらはコレラの流行と対策に影響した。
20世紀初頭には、エジプトのエルトールで軽症型コレラが確認された。この地域の流行には巡礼地としての宗教的要因や、スエズ運河に近い経済的要因が関与していた。
19世紀のコレラ流行と克服は、「新しい医学史」の視点で多角的に研究され、膨大な成果が蓄積されている。疫学的に最重要の感染症とはいいきれないものの、感染症の歴史を考察するうえで19世紀のコレラは特に注目すべき疾患である。
〇19世紀ロンドンのコレラと公衆衛生
1831年から1866年にかけて、ロンドンは繰り返しコレラの流行を経験した。1831年の流行では多くの死者が出ており、1853年から1854年には約1万人、1866年には約5600人が犠牲となった。
ロンドンの地理的特徴として、テムズ川沿岸の東部の湿地の広がりが挙げられる。18〜19世紀には洪水が頻発し、不衛生な状況が蔓延していた。1887年から1900年の統計によると、イングランド東部で発生した洪水の約70%がロンドンで起こった。20世紀に入ってロンドンはこれを克服した。
テムズ川の氾濫は急激な人口増加と関連している。1800年には100万人であったロンドンの人口は、1850年に300万人、1900年に650万人に達した。この増加は産業革命に伴う地方から都市への移住によるものである。工場の排水や廃棄物がテムズ川を汚染した。
18〜19世紀の統計学の発展により、疾病や都市問題が数量的に分析されるようになり、政治家、医師、シヴィル・エンジニアたちが協力して都市衛生の改善に取り組んだ。1854年、医師John Snowは ソーホー地区のコレラ流行を統計的に分析し、水道会社の違いが死者数に影響したことを示した。彼は汚染水がコレラの原因であるとし、水道供給の改善を提言した。
シヴィル・エンジニアのJoseph Bazalgette(1819-1891)は、1858年のテムズ川の“The Great Stink(大悪臭)”の際、下水道整備を主導し、揚水技術を活用して都市衛生の向上に貢献した。
このように、コレラ流行において「水」は感染拡大と克服に重要な役割を果たした。揚水技術の発展は下水道整備を可能にし、水問題を改善した一方で、高層建築の普及を促し、大火災のリスクを高めた。ロンドンでは1903年の精神病院火災から2017年のグレンフェル・タワー火災まで、これらの高層建築が大規模災害を引き起こした。水の揚水技術は都市衛生改善に寄与したものの、新たな課題も生んだ。
〇19世紀江戸・東京のコレラと公衆衛生
江戸の町は16世紀末に人工的に作られ、西側が台地、東側が湿地という特徴的な地形をもつ。湿地は埋め立てられ、商人は下町に、武士は台地に住んだ。
江戸の水道では神田上水と玉川上水が有名である。湿地の水は飲用に適さず、台地の池や泉から水を引いた。一方、後に作られた4つの上水(千川、青山、三田、亀有上水)は、儒学者・室鳩巣が上水道が火事を助長すると将軍吉宗に進言したため、江戸の大火事後に廃止された。
ロンドンのコレラ対策とは対照的に、江戸では産業革命は存在せず、水の揚水は人力に頼っていた。商人たちは数量記録を取っていたが、統計的な知識の普及には限界があった。しかし、明治維新後にヨーロッパの公衆衛生を急速に取り入れ、1876年から法定伝染病の死者数・患者数が府県別に公表されるようになった。
江戸・東京のコレラは1858年の大規模な流行を皮切りに数回の大流行があったが、1900年代にはかなりの減少傾向を示した。この減少には新聞の情報伝達が重要であったと考えられる。明治初期の新聞は、町別の詳細な感染状況を迅速かつおそらく正確に報じた。読売新聞は町単位での流行状況を記録しており、これにより集団発生地域の特定が可能であった。
1886年の大流行では、湿地や下町での流行が顕著で、特に日本橋区や神田区で流行し、中でも河岸に近い地域が大きく影響を受けた。河岸は商業と運輸の拠点であると同時に、水系感染症のリスクを常に抱える場所でもあった。
江戸・東京の長屋では、比較的富裕な商人や職人は表長屋に住み、貧困層は裏長屋に住んでいた。裏長屋では非常に狭い共用の水場で食器洗いや洗濯、顔洗い、排泄が行われ、水場を共有することで感染症が広がった可能性がある。
1890年代以降、日本はヨーロッパ式の上水道改革を推進した。淀橋には揚水施設、沈殿池、濾過池、給水プールが設置され、水道管も鉄製化された。1898年に給水が始まり、1900年代には東京中心部で普及し、大規模なコレラ流行は収束した。
一方、下水道建設は1922年に始まったが、進展が遅く東京の発展に追いつけなかった。隅田川の汚染が進む中 、赤痢の患者数は増加し続けた。隅田川の悪臭により花火大会が中断されるなど、水質汚染は長期的な課題となった。
〇結論―ロンドンと江戸・東京のコレラ対策を比較して
ロンドンと江戸・東京では、コレラによる死者数が5000人から10000人を超える規模に達した。
ロンドンは、John Snowの発見と下水道の大規模整備により、1860年代後半にはコレラの制御に成功した。一方、江戸・東京では、明治時代の上水道改革により、1900年代には感染が大幅に抑えられた。
両都市に共通するのは、川と水が感染拡大に深く関与していた点であり、水道整備を中心とした公衆衛生の改善によってコレラ制御を達成した点である。
●コメント1
東北大学大学院経済学研究科 教授 小田中直樹
〇ロンドンと江戸・東京のコレラ対策の共通点と相違点の背景
両都市ではコレラ制御において水道整備が中心的な役割を果たした点で共通している。これは日本がヨーロッパにキャッチアップする形で対策が進められたため、ある意味で当然の結果といえる。
江戸・東京では、読売新聞を通じて町ごとのデータが公開され、人々が行動変容を起こした可能性がある。一方、ロンドンでは、下水道プロジェクトといった都市改造を通じて、テクノロジーを活用して自然を制御するアプローチが主軸となった。この違いは、日本とヨーロッパにおける自然観や疾病観の相違と関連している可能性があり、こうした観点からの議論も興味深い。
さらに、江戸・東京では下水道整備が遅れ、上水道整備が先行した。一方、ロンドンでは下水道整備が感染制御の鍵となった。この違いの背景には、技術的、社会的、政治的、あるいは経済的な要因が関与している可能性があり、これについてのさらなる考察が求められる。
〇19世紀の特徴を様々な視点から考察する
感染症制圧にはプラス面とマイナス面が存在する点も注目すべきである。ロンドンでは、揚水技術の進展によりビルの高層化が可能となったが、それが大火災のリスクを増大させたと指摘された。
一方、インドでは、開発が進むにつれて感染症が広がる「開発原病」が議論されている。これは、近代化が感染症制圧に与えた負の側面を示す例である。また、もともとインド近辺の風土病であったコレラが、イギリス軍の介入によってパンデミック化したことも、感染症制圧の過程で現れた植民地化の負の側面といえる。
感染症制圧の背景には、19世紀の工業化、国民国家形成、帝国主義、植民地化といった歴史的文脈が存在する。これらがもたらしたプラスの面とマイナスの面を検討することが必要である。また、その背景には疾病観や自然観が存在し、それらが社会においてどのような意義を有するのかも考察すべきである。さらに、東洋と西洋でそれらがどのように異なるのかを分析することも重要である。
●コメント2「日本史学の立場からのコメント-仙台を事例に-」
東北大学災害科学国際研究所 准教授 川内淳史
〇仙台市の上下水道整備の経緯
仙台は東京に比べて小規模な都市であり、江戸時代末期から明治初頭にかけて人口約5万人の町であった。しかし、この規模でも当時の日本では10番目以内に入る大都市であり、地方都市としての課題には東京と類似する点がみられる。
江戸・東京では玉川上水などの上水道が整備されつつも、下水道の完成が遅れたとあったが、仙台では逆に下水道整備が先行した。仙台では、下水道は東京・大阪に次ぐ全国3番目の起工となり、1912年に一応の完成をみた。一方で、上水道の整備はそれ以降、大正期に入ってから進められ、約10年後に市内給水が開始された。
1891年に仙台市会で提出された上水道調査費提案理由には、以下の要因が挙げられている。
1.道路改修に伴う衛生問題
〇仙台の四ッ谷用水
仙台では江戸時代から広瀬川の水を取水し城下町へ供給する「四ッ谷用水」が整備されていた。この用水路は生活用水、防火用水、排水路として利用され、飲用水には井戸水が使用されるなど用途が分けられていた。また、町共同体である「水下十八町」によって清掃や管理が行われていた。
しかし、明治維新後、都市改造が進むにつれ四ッ谷用水は縮小され、町共同体による管理も不十分となり、汚水が流れる状況が続いた。この結果、大雨時には家屋浸水の被害が拡大し、水質汚染による衛生環境の悪化も招かれた。このような問題は、近世都市が近代都市へ移行する過程で生じたものであり、水の流れを都市の「表」から「裏」へ隠すことで衛生問題が悪化した例といえる。
〇近代都市の変容と感染症対応
仙台の事例からみえてくるのは、明治期の日本の都市における感染症問題を考える際に、近代都市の産業化や交通の近代化を前提とした空間的・社会的な変容と感染症対応の過程を関連付けて考えることの重要性である。都市の成立や展開を議論する都市史研究の中には、医学史の視点から考察すべき問題も含まれている。例えば、神戸では「衛生組合」が形成され、江戸時代の「家持」による個人の努力から、市行政による衛生管理へと移行する展開がみられたとする研究がある。このような社会変容は、感染症対応の歴史を考えるうえで欠かせない視点である。
〇「近代」一般と「日本近代」の視点
近代の感染症対応は、「近代」一般の問題として捉えるだけでなく、「日本近代」の特殊性も考慮する必要がある。日本の近代は前近代社会を前提に成立しており、その変容過程を考察することで、西洋とは異なる日本独自の感染症対応の確立過程やモデルがみえてくる可能性がある。ロンドンと江戸・東京の比較という視点は、このような議論を深めるうえで極めて有益であり、さらなる議論が求められる。
●コメント3
東北アジア研究センター 助教 竹原万雄
〇地域ごとの感染症対策
湿地や台地、河岸といった地形条件が患者数に大きな差を生む点は印象的であった。これは、地域特性を考慮した感染症対策の重要性を示している。
明治時代、日本の衛生政策はコレラ流行を契機に急速に整備された。1877年に「衛生の父」と称される長與專齋が提出した「衛生意見」には、衛生対策は風土や文化に応じて変えるべきであり、国が全体を統括しつつ地域特性に即した対応を取る必要があると述べられている。この考えは、中央集権と地方自治のバランスをめぐる議論にもつながる点がある。
川内准教授が触れた「衛生組合」の制度もこの議論に関連する。1887年、政府は衛生組合の設立を推奨したが普及は困難を伴った。それでも地域住民が協力して清掃や消毒を行い、衛生環境を改善する取り組みは徐々に定着し、協力と監視を基盤とする制度として機能した。このように、国の枠組みと地域特性に即した取り組みの両輪が感染症対策には不可欠である。
〇水道整備とその他の対策の意義
日本の近代化の過程における感染症対策では、水道敷設の遅れや、隔離や消毒といった低コストの対策が優先されたことがしばしば批判される。確かにコレラ対策に水道整備は効果を発揮したが、腸チフスや赤痢では限界があった。この違いは、水道整備だけでは不十分であり、隔離や消毒、衛生思想の普及といった多層的な対策が必要であったことを示している。また、コレラと腸チフス・赤痢の致死率の差も感染拡大の差に影響した。当時、コレラの致死率は60~70%と高かったのに対し、赤痢は20~30%程度で、致死率が低い赤痢では患者が感染を隠す傾向が強まり、感染拡大の一因となった。致死率の違いは、感染症対策や住民の意識に大きな影響を及ぼした重要な要素である。
竹原助教が触れた腸チフスや赤痢との違いは、感染経路の違いによる。コレラは水系感染で水を介して広がるため、水道整備は効果的である。一方、腸チフスは主に食物を介して感染する。Typhoid Maryの事例のように、感染者が継続的に菌を排出することがある。赤痢は主に糞口感染で、手洗いが不十分だと特に家庭内で感染が広がる。上水道が整備されても、腸チフスや赤痢は全体的な衛生状態が改善しないと感染は拡大する。コレラ患者が水道整備で減少した一方で、腸チフスや赤痢が減少しなかったのは、このような感染経路の違いで説明される。
〇終わらないコレラの第7次パンデミック
コレラが1900年代以降に収束したのは先進国でのことであり、現在でも低・中開発国、特にアフリカやアジアでは深刻な被害が続いている。コレラの震源地とされるインドのコルカタ(カルカッタ)では、毎年およそ10万人が死亡しているともいわれる。ザンビアのルサカでも、毎年のようにコレラが流行しており、都市人口の急増に対してインフラ整備が追い付いていない。1961年に始まった第7次パンデミックがまだ続いているとされている。
〇江戸・東京の水環境とコレラ:浅井戸と感染拡大のリスク
江戸・東京は埋立地で井戸水に海水が混ざるので、淡水供給は玉川上水など外部の水源に依存し、浅井戸を利用していた。特に深川地域では水質は悪かったが、新宿や山手では関東ローム層を通過した地下水が利用でき、自然の濾過作用で清潔な水が得られた。この違いが全国各地で地域ごとの衛生環境を左右した。
水質が悪く浅井戸の多い地域ではトイレの汚水が地下水に混入し、不衛生な水環境がコレラの蔓延を助長していたと考えられる。
また、隅田川では満潮時に水位が変化し、深川周辺の水路は汽水域である。このような汽水域にはコレラ菌が常在し、人が集まる場所では感染リスクがさらに高まった。
江戸・東京と現代の低・中開発国の状況には以上のような水環境に共通する部分があり、コレラ感染拡大の要因となっている。
〇「衛生組合」の実態
衛生組合は、地域住民が協力して衛生状態を改善する自治的な取り組みとして設立が推奨された。しかし、19世紀には十分に機能しない例が多く、住民にとって楽しさや自発的な参加意欲を促す場にはなりにくかったといえる。むしろ、義務感を伴う町内会の役員活動に近い性格を有していたと推測される。
城下町や港町など、町共同体の枠組みが明確な地域では衛生組合が一定の機能を果たしたが、より小規模単位の組織化は進まなかった。一方、農村部では異なる形態の衛生組合が形成された可能性があるが、具体的な様相は明らかになっていない。
〇新聞の影響力と移住欲求
明治時代、新聞に感染者の居住地の区名や町名が詳しく記載されたことで、移住への興味や欲求が生まれた。江戸時代には居住地が身分制で制限されていたが、明治期に入り人々は自由に移住できるようになった。
たとえば、日本橋区や京橋に住む大金持ちが移住を希望した記録がある。これは、新聞を通じた情報が新たな地域への移住を考えるきっかけとなり、侍や大名が占めていた地域が開放され、大名屋敷などが売却された結果、居住パターンが大きく変化したことを示唆する。
こうした都市内部の居住パターンの変化(「水平的な移動」)では、湿地帯や河岸沿いの危険で劣悪な環境から、より安全で快適な地域への移住欲求が生まれていたと推測される。新聞が提供する情報は、当時の人々の移住や居住地選択に大きな影響を与えたといえる。
〇感染症対策における情報公開の変遷
読売新聞に掲載された町単位のデータが、人々の行動や居住地の変容に影響したとする指摘は示唆に富む。1800年代のコレラについて、内務省は詳細な地図を作成し、東京市(当時)では区単位のデータが公開されていた。このため、下町と山手における死亡率の違いは比較的よく知られていた。
しかし、これが現在のCOVID-19の状況と一致しているかというと、必ずしもそうではないように思われる。たとえば、近代日本では「疾病紙」と呼ばれる詳細な地図や患者情報が記録され、現代であればプライバシーの観点から問題視されそうなほどの情報公開が広く行われていた。一方、COVID-19においては、日本では詳細な地域差に関する報道が抑制されている印象がある。欧米諸国では新聞が都市内の患者発生の地域差を逐次報じ、人々の行動変容を促した事例があるのに対し、日本の報道はより慎重である。近代日本と現代の感染症対策における情報公開のあり方の変遷は興味深い。
〇江戸時代の感染症
江戸時代の日本では、ヨーロッパで14~18世紀に繰り返し流行したペストのような感染症はみられなかった。麻疹の流行が錦絵や版画で描かれ、ニュースとして広まることはあったものの、こうした事例が17世紀以前に遡ることは確認されていない。天然痘のような感染力の強い病気では地域単位で隔離が行われることもあったが、その他の病気に関しては感染の概念が広く共有されていなかったとみられる。ヨーロッパではペスト流行を契機に公衆衛生対策が発展したが、日本ではそのような経験がなく、感染症が共同体の危機であるという意識は低かったと考えられる。
近代日本における「疫病」の概念は、感染症と飢餓が混在していた点が特徴的である。麻疹や天然痘といった感染症だけでなく、飢餓による死亡も「疫病」として扱われていた可能性が高い。江戸時代の死亡原因を探るうえで、過去帳や墓石は重要な資料である。墓石が立てられるのは特定の階層に限られるため、全体像の把握には限界があるが、それでも飢饉期には子供の死亡率が増加していたことが確認されており、飢餓が主要な死亡要因であったことが示唆される。
麻疹は江戸時代以前から存在が明らかであり、天然痘については6世紀頃に日本に伝わった記録がある。しかし、2020年に発表されたサイエンスの論文では、天然痘ウイルスの病原性が劇的に高まったのは17世紀頃で、それ以前は致命的な病気ではなかった可能性が指摘されている。ヴァイキング時代の骨から抽出された天然痘ウイルスの遺伝子解析でも、当時の病原性は高くなかったことが示唆されている。
パンデミック・インフルエンザに関する記録には議論の余地がある。1889年のパンデミックについては、インフルエンザによるものなのか、コロナウイルスによるものなのか、確定していない。当時の記録から病気を特定するのは困難であり、HCoV-OC43という牛由来のコロナウイルスがヒトに伝播した可能性も指摘されている。さらに、パリ大学の研究では、この時期の死亡者の年齢分布が従来のインフルエンザと異なることが指摘されており、さらなる研究が必要とされている。
1890年代以降、医師が統計を活用して感染症を記録し始めたことで、インフルエンザという概念が徐々に確立されたという指摘もある。
世界的にも、19世紀初頭までは感染症に対する科学的理解は極めて乏しく、ロベルト・コッホがコレラ菌を特定する以前、1851年の国際衛生会議でも、ミアズマ説と病原体説の議論が中心で具体的な対策には至らなかった。コッホの業績により感染症の科学的理解が進み、具体的な対策が可能になったのは19世紀後半のことである。
〇医療記録の価値:精神医療と感染症研究の視点から
精神医療の歴史研究では、「病床日誌」と呼ばれる資料が特に重視される。病床日誌は、医師や看護師が患者の病状経過や日々の振る舞いを詳細に記録したものであり、個別事例の深い分析や統計的研究の基盤となる非常に貴重な情報源である。精神病院では在院期間が長期にわたることが多く、患者の入院経緯や背景、入院中のエピソードが詳細に記録されていることが多い。
一方で、コレラのような感染症の場合、入院期間が短いために病床日誌のような継続的な記録は少なく、患者の背景や病状の進行に関する詳細な情報は得にくい。しかし、伝染病を扱った避病院などでは、類似の記録が残されている可能性がある。これらの資料を発掘するためには、医療機関やアーカイブを丹念に調査する必要がある。たとえば、都立駒込病院はかつて避病院として機能しており、詳細な記録が残されている一例である。
しかしながら、多くの医療記録が廃棄されている現実も存在する。記録が失われる主な理由として、スペースの問題が挙げられる。これは医学史研究にとって大きな損失といえる。一方で、東京大学医学部の第二外科のように、過去の資料を丁寧に保存している例もある。同科では関東大震災時に入院した約50例の患者記録が詳細に残されており、当時の実態を知る貴重な資料となっている。
コレラやCOVID-19のような感染症についても、過去の詳細な医療記録が十分に解析されていない。医療史の研究者やアーカイブの専門家と連携し、未活用の記録を活用することが、今後の医学史研究の発展に寄与するだろう。
〇医学史における正史と異説:新たな歴史的視点の提示
19世紀にJohn Snowがロンドンで行ったコレラ対策が、近代疫学の起源として広く認識されてきた。しかし、2021年に出版されたジム・ダウンズ著『Maladies of Empire: How Colonialism, Slavery, and War Transformed Medicine』(『帝国の疫病―植民地主義、奴隷制度、戦争は医学をどう変えたか』)では、この通説に異議が唱えられている。
ダウンズは、19世紀の大英帝国において疫学が確立されたという主張が、後に形成された「歴史の書き直し」に過ぎないと指摘する。彼によれば、疫学的な統計や分析はすでに奴隷貿易の中で実践されており、例えば奴隷船における積載人数と死亡率の関係に関するデータが収集されていた。このような帝国主義的背景の中での医学統計が疫学の源流である可能性が示唆される。この視点は、John Snowの業績を近代疫学の唯一の起源とする通説が、帝国主義を背景とした史実をいわば「隠蔽」しているのではないかという疑念を投げかけるものである。
同様に、タバコと肺がんの関係を示した研究も、歴史の再構成が働いた例として挙げられる。公式には、肺がんと喫煙の関連性を示した最初の研究は、第二次世界大戦後にイギリスで行われた医師を対象とした追跡調査とされている。しかし実際には、ナチス・ドイツの研究者たちがそれに先立ち、肺がん患者と非肺がん患者の喫煙歴を比較することで関連性を発見していた。この研究はナチス・ドイツの健康政策の一環として行われたが、その事実は現在ほとんど顧みられていない。
こうした事例から浮かびあがるのは、医学の歴史が特定の文脈で書き直されてきたという事実である。歴史は時代の要請や社会的背景と密接に結びついており、それに応じて解釈が変わる。John Snowの研究を近代疫学の起源とする文脈が妥当であれば、それを評価する意義はある。一方で、疫学的分析が帝国主義や奴隷制度の中で既に行われていたという別の視点も、歴史の多様性を理解するうえで非常に重要である。
歴史学は、「正史」とされるキャノンが修正され、再評価されるプロセスを通じて発展してきた。こうした様々な視点を取りいれることで、我々がまだ知らない背景を明らかにし、理解を深める契機となるだろう。
〇近代化が生んだ感染症への脆弱性
近代以前の日本では、敷地内の井戸を利用し、飲料水供給を家単位で完結させる仕組みが、一部地域で感染症拡大の抑制に寄与していた。東日本では点在する家屋ごとに井戸を有する形式がみられたが、西日本や都市部では家屋が密集し、共有井戸が主流の地域もあった。また、仙台のように地下水が豊富な地域では、江戸時代から飲料水と排水路を分離する仕組みが整備され、感染症の抑制に役立った可能性がある。
江戸時代に大量死の主因となったのは飢饉であり、感染症ではなかった。しかし、近代化に伴う都市計画の影響で井戸に悪水が混入し、共同体の脆弱性が生じたことが、コレラなどのパンデミックを招いた要因となった。
東北地方では農村部の共同体構造がコレラの早期減少に寄与したと考えられる。一方で、1920年代から1930年代に都市への出稼ぎが増え、人の移動が活発化した結果、結核の罹患率が急上昇した。これも、従来の共同体構造には感染症抑止の効果があったが、近代化が新たな脆弱性を生んだ一例といえる。
さらに、途上国では伝統的な独立した生活様式が感染症拡大を抑制していたが、近代化に伴う新たな生活様式の導入が、パンデミックを引き起こしやすい環境を形成する事例も観察される。
〇帝国主義と感染症:欧米諸国の感染症への対応
小田中教授の著書『感染症はぼくらの社会をいかに変えてきたのか』は、イギリス史学者・見市雅俊氏のロンドンにおけるコレラ流行の記述を取りあげている。19世紀初頭、ロンドンでは感染症の大規模流行は少なく、1817年にアジアで始まったコレラの最初のパンデミックもオスマントルコまでにとどまった。当時、イギリスはコレラをアジア特有の病気とみなし、自国とは無縁と考えていた。しかし、第3次パンデミックでロンドンも大流行に見舞われ、多くの犠牲者を出したことで、「自らの中にアジアを見た」と形容される状況が生じた。
19世紀は国民国家の成立、工業化、帝国主義が進展した時代であり、ヨーロッパは自国や他国に「他者」を見出し、それを取り込む過程にあった。コレラのパンデミックは、帝国主義の拡大を背景にアジア的要素がヨーロッパ社会に影響を与えた一例といえる。
この現象は、COVID-19のパンデミックと通じるものがある。欧米諸国は当初、感染症をアジアやアフリカの問題と捉え、自国の医療体制への過信からリスクを軽視していた。しかし、対応の遅れが感染拡大を招き、多くの死者を出したことで厳しい批判にさらされた。
〇おわりに:COVID-19を経験し歴史学者として考えたこと
COVID-19を通じて、日本社会に特有の「日常的な監視」の影響を強く感じた。たとえば「自粛警察」のような現象は、社会的プレッシャーが感染症対策に良くも悪くも影響を与えた一例である。このような現象が日本の低い死亡率に寄与した可能性がある。
また、COVID-19を経験する中で、歴史資料の見方にも変化が生じた。これまでは「命が最優先」という視点で歴史を捉えていたが、実際には経済活動や社会的要因が人々の行動に大きな影響を及ぼしていることを実感した。この経験を踏まえ、歴史における人々の選択や行動を再評価する必要性を強く感じている。
感染症と歴史を考えるうえで、スペイン風邪研究で知られるアルフレッド・クロスビーの「生態学的帝国主義」という概念は非常に示唆に富む。大航海時代以降、微生物の移動を含む人的交流が感染症の世界的拡大を促進した。COVID-19では、数百年続いた「世界の一体化」が一時的に崩れ、各国がナショナルな単位で対応せざるを得なかった。このような状況下で、日本という国の特性が感染症への耐性や適応にどのように影響したのかを問うことが必要だ。同時に、グローバルな視点だけでは不十分であると痛感した。感染症の影響は町や地域といったミクロな単位で捉え直す必要がある。COVID-19は都市部を中心に流行したが、これはコレラと共通する側面であり、都市化がもたらす感染症の脆弱性を改めて考える契機となった。
また、コロナ禍を経験した学生たちの「失われた時間」についても重要な問題として捉えている。ゼミで「芋煮会をしたことがない」と話す学生の言葉から、世代特有の経験不足が生まれていることを実感した。このような「時間の意味」を歴史的に捉え直すことも、今後の課題である。
COVID-19は、次のパンデミックへの備えの重要性を示した。都市化の進行や動物由来ウイルスのリスクを考えれば、新たな感染症の流行は避けられないだろう。その際、各国や個人の対応能力が試されることになる。今後のパンデミックで若者や子どもが影響を受けた場合、社会全体へのインパクトは計り知れない。パンデミックへの理解には医学だけでなく、社会学や心理学といった他分野の視点が不可欠である。
COVID-19に関する膨大な資料をいかに適切に保存し、未来に伝えるかも重要な課題である。デジタル化が進む中で、大量かつ様々な媒体の記録の散逸を防ぎ、次世代に引き継ぐ仕組みが求められている。COVID-19を単なる危機として片付けるのではなく、歴史の中でどのように位置づけ、未来に向けた教訓をどう引き出すかが問われている。
東京大学大学院人文社会系研究科 教授 鈴木晃仁
〇導入:医学史研究の特徴 「古い医学史」と「新しい医学史」
「古い医学史」は、20世紀初頭より優れた医師に焦点を当てて研究され、特にドイツを中心に多くの成果を残した。「新しい医学史」にとってもこれらは重要な基盤である。
1970年代に確立された「新しい医学史」は、医学や医療の歴史だけでなく、社会的・文化的背景を幅広く検討する点が特徴である。この分野は総合史や社会史と密接に関連しながら発展してきた。重要な概念として「ヒポクラテスの三角形」があり、疾病、患者、医療者の相互関係によって医療が成り立つとする。この三者の背景には法律、政策、経済、科学、技術、環境、思想、文化といった要素があり、「新しい医学史」はこうした包括的視点を基盤としている。
〇コレラと歴史的背景
コレラは、1884年にロベルト・コッホが発見した Vibrio cholerae による急性経口感染症で、水や食物を介して感染する。もとはガンジス川周辺の風土病であったが、1817年にイギリス兵士を通じて世界に広がり、現在も第7波の流行が続いている。
19~20世紀初頭、コレラはヨーロッパ、アメリカ、日本を含む多くの地域で大流行し、その克服が進んだ。この時代は革命や民主主義の導入、産業革命、国民国家の形成、植民地政策など社会経済の転換期であり、これらはコレラの流行と対策に影響した。
20世紀初頭には、エジプトのエルトールで軽症型コレラが確認された。この地域の流行には巡礼地としての宗教的要因や、スエズ運河に近い経済的要因が関与していた。
19世紀のコレラ流行と克服は、「新しい医学史」の視点で多角的に研究され、膨大な成果が蓄積されている。疫学的に最重要の感染症とはいいきれないものの、感染症の歴史を考察するうえで19世紀のコレラは特に注目すべき疾患である。
〇19世紀ロンドンのコレラと公衆衛生
1831年から1866年にかけて、ロンドンは繰り返しコレラの流行を経験した。1831年の流行では多くの死者が出ており、1853年から1854年には約1万人、1866年には約5600人が犠牲となった。
ロンドンの地理的特徴として、テムズ川沿岸の東部の湿地の広がりが挙げられる。18〜19世紀には洪水が頻発し、不衛生な状況が蔓延していた。1887年から1900年の統計によると、イングランド東部で発生した洪水の約70%がロンドンで起こった。20世紀に入ってロンドンはこれを克服した。
テムズ川の氾濫は急激な人口増加と関連している。1800年には100万人であったロンドンの人口は、1850年に300万人、1900年に650万人に達した。この増加は産業革命に伴う地方から都市への移住によるものである。工場の排水や廃棄物がテムズ川を汚染した。
18〜19世紀の統計学の発展により、疾病や都市問題が数量的に分析されるようになり、政治家、医師、シヴィル・エンジニアたちが協力して都市衛生の改善に取り組んだ。1854年、医師John Snowは ソーホー地区のコレラ流行を統計的に分析し、水道会社の違いが死者数に影響したことを示した。彼は汚染水がコレラの原因であるとし、水道供給の改善を提言した。
シヴィル・エンジニアのJoseph Bazalgette(1819-1891)は、1858年のテムズ川の“The Great Stink(大悪臭)”の際、下水道整備を主導し、揚水技術を活用して都市衛生の向上に貢献した。
このように、コレラ流行において「水」は感染拡大と克服に重要な役割を果たした。揚水技術の発展は下水道整備を可能にし、水問題を改善した一方で、高層建築の普及を促し、大火災のリスクを高めた。ロンドンでは1903年の精神病院火災から2017年のグレンフェル・タワー火災まで、これらの高層建築が大規模災害を引き起こした。水の揚水技術は都市衛生改善に寄与したものの、新たな課題も生んだ。
〇19世紀江戸・東京のコレラと公衆衛生
江戸の町は16世紀末に人工的に作られ、西側が台地、東側が湿地という特徴的な地形をもつ。湿地は埋め立てられ、商人は下町に、武士は台地に住んだ。
江戸の水道では神田上水と玉川上水が有名である。湿地の水は飲用に適さず、台地の池や泉から水を引いた。一方、後に作られた4つの上水(千川、青山、三田、亀有上水)は、儒学者・室鳩巣が上水道が火事を助長すると将軍吉宗に進言したため、江戸の大火事後に廃止された。
ロンドンのコレラ対策とは対照的に、江戸では産業革命は存在せず、水の揚水は人力に頼っていた。商人たちは数量記録を取っていたが、統計的な知識の普及には限界があった。しかし、明治維新後にヨーロッパの公衆衛生を急速に取り入れ、1876年から法定伝染病の死者数・患者数が府県別に公表されるようになった。
江戸・東京のコレラは1858年の大規模な流行を皮切りに数回の大流行があったが、1900年代にはかなりの減少傾向を示した。この減少には新聞の情報伝達が重要であったと考えられる。明治初期の新聞は、町別の詳細な感染状況を迅速かつおそらく正確に報じた。読売新聞は町単位での流行状況を記録しており、これにより集団発生地域の特定が可能であった。
1886年の大流行では、湿地や下町での流行が顕著で、特に日本橋区や神田区で流行し、中でも河岸に近い地域が大きく影響を受けた。河岸は商業と運輸の拠点であると同時に、水系感染症のリスクを常に抱える場所でもあった。
江戸・東京の長屋では、比較的富裕な商人や職人は表長屋に住み、貧困層は裏長屋に住んでいた。裏長屋では非常に狭い共用の水場で食器洗いや洗濯、顔洗い、排泄が行われ、水場を共有することで感染症が広がった可能性がある。
1890年代以降、日本はヨーロッパ式の上水道改革を推進した。淀橋には揚水施設、沈殿池、濾過池、給水プールが設置され、水道管も鉄製化された。1898年に給水が始まり、1900年代には東京中心部で普及し、大規模なコレラ流行は収束した。
一方、下水道建設は1922年に始まったが、進展が遅く東京の発展に追いつけなかった。隅田川の汚染が進む中 、赤痢の患者数は増加し続けた。隅田川の悪臭により花火大会が中断されるなど、水質汚染は長期的な課題となった。
〇結論―ロンドンと江戸・東京のコレラ対策を比較して
ロンドンと江戸・東京では、コレラによる死者数が5000人から10000人を超える規模に達した。
ロンドンは、John Snowの発見と下水道の大規模整備により、1860年代後半にはコレラの制御に成功した。一方、江戸・東京では、明治時代の上水道改革により、1900年代には感染が大幅に抑えられた。
両都市に共通するのは、川と水が感染拡大に深く関与していた点であり、水道整備を中心とした公衆衛生の改善によってコレラ制御を達成した点である。
●コメント1
東北大学大学院経済学研究科 教授 小田中直樹
〇ロンドンと江戸・東京のコレラ対策の共通点と相違点の背景
両都市ではコレラ制御において水道整備が中心的な役割を果たした点で共通している。これは日本がヨーロッパにキャッチアップする形で対策が進められたため、ある意味で当然の結果といえる。
江戸・東京では、読売新聞を通じて町ごとのデータが公開され、人々が行動変容を起こした可能性がある。一方、ロンドンでは、下水道プロジェクトといった都市改造を通じて、テクノロジーを活用して自然を制御するアプローチが主軸となった。この違いは、日本とヨーロッパにおける自然観や疾病観の相違と関連している可能性があり、こうした観点からの議論も興味深い。
さらに、江戸・東京では下水道整備が遅れ、上水道整備が先行した。一方、ロンドンでは下水道整備が感染制御の鍵となった。この違いの背景には、技術的、社会的、政治的、あるいは経済的な要因が関与している可能性があり、これについてのさらなる考察が求められる。
〇19世紀の特徴を様々な視点から考察する
感染症制圧にはプラス面とマイナス面が存在する点も注目すべきである。ロンドンでは、揚水技術の進展によりビルの高層化が可能となったが、それが大火災のリスクを増大させたと指摘された。
一方、インドでは、開発が進むにつれて感染症が広がる「開発原病」が議論されている。これは、近代化が感染症制圧に与えた負の側面を示す例である。また、もともとインド近辺の風土病であったコレラが、イギリス軍の介入によってパンデミック化したことも、感染症制圧の過程で現れた植民地化の負の側面といえる。
感染症制圧の背景には、19世紀の工業化、国民国家形成、帝国主義、植民地化といった歴史的文脈が存在する。これらがもたらしたプラスの面とマイナスの面を検討することが必要である。また、その背景には疾病観や自然観が存在し、それらが社会においてどのような意義を有するのかも考察すべきである。さらに、東洋と西洋でそれらがどのように異なるのかを分析することも重要である。
●コメント2「日本史学の立場からのコメント-仙台を事例に-」
東北大学災害科学国際研究所 准教授 川内淳史
〇仙台市の上下水道整備の経緯
仙台は東京に比べて小規模な都市であり、江戸時代末期から明治初頭にかけて人口約5万人の町であった。しかし、この規模でも当時の日本では10番目以内に入る大都市であり、地方都市としての課題には東京と類似する点がみられる。
江戸・東京では玉川上水などの上水道が整備されつつも、下水道の完成が遅れたとあったが、仙台では逆に下水道整備が先行した。仙台では、下水道は東京・大阪に次ぐ全国3番目の起工となり、1912年に一応の完成をみた。一方で、上水道の整備はそれ以降、大正期に入ってから進められ、約10年後に市内給水が開始された。
1891年に仙台市会で提出された上水道調査費提案理由には、以下の要因が挙げられている。
1.道路改修に伴う衛生問題
明治維新後、仙台では主要道路の改修が進められたが、中央にあった排水路を町裏へ移転した際、測量技術の未熟さから悪水が溜まり、腐敗するなどの衛生問題が発生した。
2.頻発する水害明治10年代から20年代にかけて日本各地で水害が多発した。仙台でも水害により市中が水没し、その滞留水が井戸水に混入することで飲料水が汚染された。この結果、腸チフスが市内で深刻な感染症問題として重要視されるようになった。1888年に仙台市役所が実施した調査では、市内で飲用に適する井戸水がほとんどないことが明らかになった。
3.防火用水の不足特に市南部では防火用水が不足しており、火災の拡大を招くリスクが高かった。
4.近代産業振興のための水利整備都市人口の増加に伴い、産業振興による生活状態の改善が急務であった。
〇仙台の四ッ谷用水
仙台では江戸時代から広瀬川の水を取水し城下町へ供給する「四ッ谷用水」が整備されていた。この用水路は生活用水、防火用水、排水路として利用され、飲用水には井戸水が使用されるなど用途が分けられていた。また、町共同体である「水下十八町」によって清掃や管理が行われていた。
しかし、明治維新後、都市改造が進むにつれ四ッ谷用水は縮小され、町共同体による管理も不十分となり、汚水が流れる状況が続いた。この結果、大雨時には家屋浸水の被害が拡大し、水質汚染による衛生環境の悪化も招かれた。このような問題は、近世都市が近代都市へ移行する過程で生じたものであり、水の流れを都市の「表」から「裏」へ隠すことで衛生問題が悪化した例といえる。
〇近代都市の変容と感染症対応
仙台の事例からみえてくるのは、明治期の日本の都市における感染症問題を考える際に、近代都市の産業化や交通の近代化を前提とした空間的・社会的な変容と感染症対応の過程を関連付けて考えることの重要性である。都市の成立や展開を議論する都市史研究の中には、医学史の視点から考察すべき問題も含まれている。例えば、神戸では「衛生組合」が形成され、江戸時代の「家持」による個人の努力から、市行政による衛生管理へと移行する展開がみられたとする研究がある。このような社会変容は、感染症対応の歴史を考えるうえで欠かせない視点である。
〇「近代」一般と「日本近代」の視点
近代の感染症対応は、「近代」一般の問題として捉えるだけでなく、「日本近代」の特殊性も考慮する必要がある。日本の近代は前近代社会を前提に成立しており、その変容過程を考察することで、西洋とは異なる日本独自の感染症対応の確立過程やモデルがみえてくる可能性がある。ロンドンと江戸・東京の比較という視点は、このような議論を深めるうえで極めて有益であり、さらなる議論が求められる。
●コメント3
東北アジア研究センター 助教 竹原万雄
〇地域ごとの感染症対策
湿地や台地、河岸といった地形条件が患者数に大きな差を生む点は印象的であった。これは、地域特性を考慮した感染症対策の重要性を示している。
明治時代、日本の衛生政策はコレラ流行を契機に急速に整備された。1877年に「衛生の父」と称される長與專齋が提出した「衛生意見」には、衛生対策は風土や文化に応じて変えるべきであり、国が全体を統括しつつ地域特性に即した対応を取る必要があると述べられている。この考えは、中央集権と地方自治のバランスをめぐる議論にもつながる点がある。
川内准教授が触れた「衛生組合」の制度もこの議論に関連する。1887年、政府は衛生組合の設立を推奨したが普及は困難を伴った。それでも地域住民が協力して清掃や消毒を行い、衛生環境を改善する取り組みは徐々に定着し、協力と監視を基盤とする制度として機能した。このように、国の枠組みと地域特性に即した取り組みの両輪が感染症対策には不可欠である。
〇水道整備とその他の対策の意義
日本の近代化の過程における感染症対策では、水道敷設の遅れや、隔離や消毒といった低コストの対策が優先されたことがしばしば批判される。確かにコレラ対策に水道整備は効果を発揮したが、腸チフスや赤痢では限界があった。この違いは、水道整備だけでは不十分であり、隔離や消毒、衛生思想の普及といった多層的な対策が必要であったことを示している。また、コレラと腸チフス・赤痢の致死率の差も感染拡大の差に影響した。当時、コレラの致死率は60~70%と高かったのに対し、赤痢は20~30%程度で、致死率が低い赤痢では患者が感染を隠す傾向が強まり、感染拡大の一因となった。致死率の違いは、感染症対策や住民の意識に大きな影響を及ぼした重要な要素である。
●ディスカッション
〇コレラ、腸チフス、赤痢の感染経路は異なる竹原助教が触れた腸チフスや赤痢との違いは、感染経路の違いによる。コレラは水系感染で水を介して広がるため、水道整備は効果的である。一方、腸チフスは主に食物を介して感染する。Typhoid Maryの事例のように、感染者が継続的に菌を排出することがある。赤痢は主に糞口感染で、手洗いが不十分だと特に家庭内で感染が広がる。上水道が整備されても、腸チフスや赤痢は全体的な衛生状態が改善しないと感染は拡大する。コレラ患者が水道整備で減少した一方で、腸チフスや赤痢が減少しなかったのは、このような感染経路の違いで説明される。
〇終わらないコレラの第7次パンデミック
コレラが1900年代以降に収束したのは先進国でのことであり、現在でも低・中開発国、特にアフリカやアジアでは深刻な被害が続いている。コレラの震源地とされるインドのコルカタ(カルカッタ)では、毎年およそ10万人が死亡しているともいわれる。ザンビアのルサカでも、毎年のようにコレラが流行しており、都市人口の急増に対してインフラ整備が追い付いていない。1961年に始まった第7次パンデミックがまだ続いているとされている。
〇江戸・東京の水環境とコレラ:浅井戸と感染拡大のリスク
江戸・東京は埋立地で井戸水に海水が混ざるので、淡水供給は玉川上水など外部の水源に依存し、浅井戸を利用していた。特に深川地域では水質は悪かったが、新宿や山手では関東ローム層を通過した地下水が利用でき、自然の濾過作用で清潔な水が得られた。この違いが全国各地で地域ごとの衛生環境を左右した。
水質が悪く浅井戸の多い地域ではトイレの汚水が地下水に混入し、不衛生な水環境がコレラの蔓延を助長していたと考えられる。
また、隅田川では満潮時に水位が変化し、深川周辺の水路は汽水域である。このような汽水域にはコレラ菌が常在し、人が集まる場所では感染リスクがさらに高まった。
江戸・東京と現代の低・中開発国の状況には以上のような水環境に共通する部分があり、コレラ感染拡大の要因となっている。
〇「衛生組合」の実態
衛生組合は、地域住民が協力して衛生状態を改善する自治的な取り組みとして設立が推奨された。しかし、19世紀には十分に機能しない例が多く、住民にとって楽しさや自発的な参加意欲を促す場にはなりにくかったといえる。むしろ、義務感を伴う町内会の役員活動に近い性格を有していたと推測される。
城下町や港町など、町共同体の枠組みが明確な地域では衛生組合が一定の機能を果たしたが、より小規模単位の組織化は進まなかった。一方、農村部では異なる形態の衛生組合が形成された可能性があるが、具体的な様相は明らかになっていない。
〇新聞の影響力と移住欲求
明治時代、新聞に感染者の居住地の区名や町名が詳しく記載されたことで、移住への興味や欲求が生まれた。江戸時代には居住地が身分制で制限されていたが、明治期に入り人々は自由に移住できるようになった。
たとえば、日本橋区や京橋に住む大金持ちが移住を希望した記録がある。これは、新聞を通じた情報が新たな地域への移住を考えるきっかけとなり、侍や大名が占めていた地域が開放され、大名屋敷などが売却された結果、居住パターンが大きく変化したことを示唆する。
こうした都市内部の居住パターンの変化(「水平的な移動」)では、湿地帯や河岸沿いの危険で劣悪な環境から、より安全で快適な地域への移住欲求が生まれていたと推測される。新聞が提供する情報は、当時の人々の移住や居住地選択に大きな影響を与えたといえる。
〇感染症対策における情報公開の変遷
読売新聞に掲載された町単位のデータが、人々の行動や居住地の変容に影響したとする指摘は示唆に富む。1800年代のコレラについて、内務省は詳細な地図を作成し、東京市(当時)では区単位のデータが公開されていた。このため、下町と山手における死亡率の違いは比較的よく知られていた。
しかし、これが現在のCOVID-19の状況と一致しているかというと、必ずしもそうではないように思われる。たとえば、近代日本では「疾病紙」と呼ばれる詳細な地図や患者情報が記録され、現代であればプライバシーの観点から問題視されそうなほどの情報公開が広く行われていた。一方、COVID-19においては、日本では詳細な地域差に関する報道が抑制されている印象がある。欧米諸国では新聞が都市内の患者発生の地域差を逐次報じ、人々の行動変容を促した事例があるのに対し、日本の報道はより慎重である。近代日本と現代の感染症対策における情報公開のあり方の変遷は興味深い。
〇江戸時代の感染症
江戸時代の日本では、ヨーロッパで14~18世紀に繰り返し流行したペストのような感染症はみられなかった。麻疹の流行が錦絵や版画で描かれ、ニュースとして広まることはあったものの、こうした事例が17世紀以前に遡ることは確認されていない。天然痘のような感染力の強い病気では地域単位で隔離が行われることもあったが、その他の病気に関しては感染の概念が広く共有されていなかったとみられる。ヨーロッパではペスト流行を契機に公衆衛生対策が発展したが、日本ではそのような経験がなく、感染症が共同体の危機であるという意識は低かったと考えられる。
近代日本における「疫病」の概念は、感染症と飢餓が混在していた点が特徴的である。麻疹や天然痘といった感染症だけでなく、飢餓による死亡も「疫病」として扱われていた可能性が高い。江戸時代の死亡原因を探るうえで、過去帳や墓石は重要な資料である。墓石が立てられるのは特定の階層に限られるため、全体像の把握には限界があるが、それでも飢饉期には子供の死亡率が増加していたことが確認されており、飢餓が主要な死亡要因であったことが示唆される。
麻疹は江戸時代以前から存在が明らかであり、天然痘については6世紀頃に日本に伝わった記録がある。しかし、2020年に発表されたサイエンスの論文では、天然痘ウイルスの病原性が劇的に高まったのは17世紀頃で、それ以前は致命的な病気ではなかった可能性が指摘されている。ヴァイキング時代の骨から抽出された天然痘ウイルスの遺伝子解析でも、当時の病原性は高くなかったことが示唆されている。
パンデミック・インフルエンザに関する記録には議論の余地がある。1889年のパンデミックについては、インフルエンザによるものなのか、コロナウイルスによるものなのか、確定していない。当時の記録から病気を特定するのは困難であり、HCoV-OC43という牛由来のコロナウイルスがヒトに伝播した可能性も指摘されている。さらに、パリ大学の研究では、この時期の死亡者の年齢分布が従来のインフルエンザと異なることが指摘されており、さらなる研究が必要とされている。
1890年代以降、医師が統計を活用して感染症を記録し始めたことで、インフルエンザという概念が徐々に確立されたという指摘もある。
世界的にも、19世紀初頭までは感染症に対する科学的理解は極めて乏しく、ロベルト・コッホがコレラ菌を特定する以前、1851年の国際衛生会議でも、ミアズマ説と病原体説の議論が中心で具体的な対策には至らなかった。コッホの業績により感染症の科学的理解が進み、具体的な対策が可能になったのは19世紀後半のことである。
〇医療記録の価値:精神医療と感染症研究の視点から
精神医療の歴史研究では、「病床日誌」と呼ばれる資料が特に重視される。病床日誌は、医師や看護師が患者の病状経過や日々の振る舞いを詳細に記録したものであり、個別事例の深い分析や統計的研究の基盤となる非常に貴重な情報源である。精神病院では在院期間が長期にわたることが多く、患者の入院経緯や背景、入院中のエピソードが詳細に記録されていることが多い。
一方で、コレラのような感染症の場合、入院期間が短いために病床日誌のような継続的な記録は少なく、患者の背景や病状の進行に関する詳細な情報は得にくい。しかし、伝染病を扱った避病院などでは、類似の記録が残されている可能性がある。これらの資料を発掘するためには、医療機関やアーカイブを丹念に調査する必要がある。たとえば、都立駒込病院はかつて避病院として機能しており、詳細な記録が残されている一例である。
しかしながら、多くの医療記録が廃棄されている現実も存在する。記録が失われる主な理由として、スペースの問題が挙げられる。これは医学史研究にとって大きな損失といえる。一方で、東京大学医学部の第二外科のように、過去の資料を丁寧に保存している例もある。同科では関東大震災時に入院した約50例の患者記録が詳細に残されており、当時の実態を知る貴重な資料となっている。
コレラやCOVID-19のような感染症についても、過去の詳細な医療記録が十分に解析されていない。医療史の研究者やアーカイブの専門家と連携し、未活用の記録を活用することが、今後の医学史研究の発展に寄与するだろう。
〇医学史における正史と異説:新たな歴史的視点の提示
19世紀にJohn Snowがロンドンで行ったコレラ対策が、近代疫学の起源として広く認識されてきた。しかし、2021年に出版されたジム・ダウンズ著『Maladies of Empire: How Colonialism, Slavery, and War Transformed Medicine』(『帝国の疫病―植民地主義、奴隷制度、戦争は医学をどう変えたか』)では、この通説に異議が唱えられている。
ダウンズは、19世紀の大英帝国において疫学が確立されたという主張が、後に形成された「歴史の書き直し」に過ぎないと指摘する。彼によれば、疫学的な統計や分析はすでに奴隷貿易の中で実践されており、例えば奴隷船における積載人数と死亡率の関係に関するデータが収集されていた。このような帝国主義的背景の中での医学統計が疫学の源流である可能性が示唆される。この視点は、John Snowの業績を近代疫学の唯一の起源とする通説が、帝国主義を背景とした史実をいわば「隠蔽」しているのではないかという疑念を投げかけるものである。
同様に、タバコと肺がんの関係を示した研究も、歴史の再構成が働いた例として挙げられる。公式には、肺がんと喫煙の関連性を示した最初の研究は、第二次世界大戦後にイギリスで行われた医師を対象とした追跡調査とされている。しかし実際には、ナチス・ドイツの研究者たちがそれに先立ち、肺がん患者と非肺がん患者の喫煙歴を比較することで関連性を発見していた。この研究はナチス・ドイツの健康政策の一環として行われたが、その事実は現在ほとんど顧みられていない。
こうした事例から浮かびあがるのは、医学の歴史が特定の文脈で書き直されてきたという事実である。歴史は時代の要請や社会的背景と密接に結びついており、それに応じて解釈が変わる。John Snowの研究を近代疫学の起源とする文脈が妥当であれば、それを評価する意義はある。一方で、疫学的分析が帝国主義や奴隷制度の中で既に行われていたという別の視点も、歴史の多様性を理解するうえで非常に重要である。
歴史学は、「正史」とされるキャノンが修正され、再評価されるプロセスを通じて発展してきた。こうした様々な視点を取りいれることで、我々がまだ知らない背景を明らかにし、理解を深める契機となるだろう。
〇近代化が生んだ感染症への脆弱性
近代以前の日本では、敷地内の井戸を利用し、飲料水供給を家単位で完結させる仕組みが、一部地域で感染症拡大の抑制に寄与していた。東日本では点在する家屋ごとに井戸を有する形式がみられたが、西日本や都市部では家屋が密集し、共有井戸が主流の地域もあった。また、仙台のように地下水が豊富な地域では、江戸時代から飲料水と排水路を分離する仕組みが整備され、感染症の抑制に役立った可能性がある。
江戸時代に大量死の主因となったのは飢饉であり、感染症ではなかった。しかし、近代化に伴う都市計画の影響で井戸に悪水が混入し、共同体の脆弱性が生じたことが、コレラなどのパンデミックを招いた要因となった。
東北地方では農村部の共同体構造がコレラの早期減少に寄与したと考えられる。一方で、1920年代から1930年代に都市への出稼ぎが増え、人の移動が活発化した結果、結核の罹患率が急上昇した。これも、従来の共同体構造には感染症抑止の効果があったが、近代化が新たな脆弱性を生んだ一例といえる。
さらに、途上国では伝統的な独立した生活様式が感染症拡大を抑制していたが、近代化に伴う新たな生活様式の導入が、パンデミックを引き起こしやすい環境を形成する事例も観察される。
〇帝国主義と感染症:欧米諸国の感染症への対応
小田中教授の著書『感染症はぼくらの社会をいかに変えてきたのか』は、イギリス史学者・見市雅俊氏のロンドンにおけるコレラ流行の記述を取りあげている。19世紀初頭、ロンドンでは感染症の大規模流行は少なく、1817年にアジアで始まったコレラの最初のパンデミックもオスマントルコまでにとどまった。当時、イギリスはコレラをアジア特有の病気とみなし、自国とは無縁と考えていた。しかし、第3次パンデミックでロンドンも大流行に見舞われ、多くの犠牲者を出したことで、「自らの中にアジアを見た」と形容される状況が生じた。
19世紀は国民国家の成立、工業化、帝国主義が進展した時代であり、ヨーロッパは自国や他国に「他者」を見出し、それを取り込む過程にあった。コレラのパンデミックは、帝国主義の拡大を背景にアジア的要素がヨーロッパ社会に影響を与えた一例といえる。
この現象は、COVID-19のパンデミックと通じるものがある。欧米諸国は当初、感染症をアジアやアフリカの問題と捉え、自国の医療体制への過信からリスクを軽視していた。しかし、対応の遅れが感染拡大を招き、多くの死者を出したことで厳しい批判にさらされた。
〇おわりに:COVID-19を経験し歴史学者として考えたこと
COVID-19を通じて、日本社会に特有の「日常的な監視」の影響を強く感じた。たとえば「自粛警察」のような現象は、社会的プレッシャーが感染症対策に良くも悪くも影響を与えた一例である。このような現象が日本の低い死亡率に寄与した可能性がある。
また、COVID-19を経験する中で、歴史資料の見方にも変化が生じた。これまでは「命が最優先」という視点で歴史を捉えていたが、実際には経済活動や社会的要因が人々の行動に大きな影響を及ぼしていることを実感した。この経験を踏まえ、歴史における人々の選択や行動を再評価する必要性を強く感じている。
感染症と歴史を考えるうえで、スペイン風邪研究で知られるアルフレッド・クロスビーの「生態学的帝国主義」という概念は非常に示唆に富む。大航海時代以降、微生物の移動を含む人的交流が感染症の世界的拡大を促進した。COVID-19では、数百年続いた「世界の一体化」が一時的に崩れ、各国がナショナルな単位で対応せざるを得なかった。このような状況下で、日本という国の特性が感染症への耐性や適応にどのように影響したのかを問うことが必要だ。同時に、グローバルな視点だけでは不十分であると痛感した。感染症の影響は町や地域といったミクロな単位で捉え直す必要がある。COVID-19は都市部を中心に流行したが、これはコレラと共通する側面であり、都市化がもたらす感染症の脆弱性を改めて考える契機となった。
また、コロナ禍を経験した学生たちの「失われた時間」についても重要な問題として捉えている。ゼミで「芋煮会をしたことがない」と話す学生の言葉から、世代特有の経験不足が生まれていることを実感した。このような「時間の意味」を歴史的に捉え直すことも、今後の課題である。
COVID-19は、次のパンデミックへの備えの重要性を示した。都市化の進行や動物由来ウイルスのリスクを考えれば、新たな感染症の流行は避けられないだろう。その際、各国や個人の対応能力が試されることになる。今後のパンデミックで若者や子どもが影響を受けた場合、社会全体へのインパクトは計り知れない。パンデミックへの理解には医学だけでなく、社会学や心理学といった他分野の視点が不可欠である。
COVID-19に関する膨大な資料をいかに適切に保存し、未来に伝えるかも重要な課題である。デジタル化が進む中で、大量かつ様々な媒体の記録の散逸を防ぎ、次世代に引き継ぐ仕組みが求められている。COVID-19を単なる危機として片付けるのではなく、歴史の中でどのように位置づけ、未来に向けた教訓をどう引き出すかが問われている。