第5回TUPRePクロストーク報告
第5回TUPRePクロストーク報告
「感染症発生時における老病死へのケア」
開催日時 | 2024年5月23日(木) 18:00-20:30 |
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開催方式 | 対面とオンラインのハイブリッド形式 |
対面会場 | 東北大学星陵キャンパス・6号館1階・講堂 |
司 会 | 坪野吉孝(東北大学大学院医学系研究科 微生物学分野 客員教授) |
日本語版記録 | 島野賢一(東北大学医学部医学科 4年) |
参加者 | 50名(対面20名、オンライン30名) |
・イントロダクション
「日本における宗教の公共性と臨床宗教師」
木村敏明(東北大学文学研究科 教授)
・話題提供
「COVID-19パンデミックと向き合う宗教者:仏教寺院と臨床宗教師の取り組み」
井川裕覚(東北大学文学研究科 特任助教)
・コメント
佐藤弘夫(東北大学文学研究科 名誉教授)
・ディスカッション
COVID-19の発生により、日常生活だけでなく宗教活動にも制限がかかった。仏教寺院では、葬送儀礼など死者を弔う儀式が簡素化された。また、医療・福祉分野で活動する臨床宗教師は、エッセンシャル・ワーカーと認められず、活動の自粛を余儀なくされた。
第5回TUPRePクロストークでは、「感染症発生時における老病死へのケア」をテーマに、死生観といった文化的背景を研究する先生方から話題提供を頂いた。そして、パンデミック下における宗教者の活動を踏まえながら、感染症発生時における老病死へのケアのあり方について議論した。
「日本における宗教の公共性と臨床宗教師」
木村敏明(東北大学文学研究科 教授)
1980年頃までの宗教学では「世俗化」理論が広く受け入れられていた。これは、近代科学の発展や、近代国民国家における政教分離の傾向により、宗教が政治、教育、経済、医療といった公の領域から撤退し、個人の信教の自由として保障された私的な領域において役割を果たすようになったという理論である。
1980年頃から、宗教の捉え方は宗教者側からも社会側からも変化した。宗教は個人の生き方に関わる問題だけでなく、社会的な問題にも関与するようになったのである。例えば、キリスト教では植民地支配や格差、貧困といった社会的問題に対する取り組みがラテンアメリカ社会で「解放の神学」として生まれ、世界に広まった。仏教では、東南アジアの上座仏教で「社会参加仏教」として社会問題への発言・行動が盛んになり、他の地域や大乗仏教にも波及した。さらに、宗教が閉じられた信者のものではなく、社会全体のものとしての役割を期待される「公共宗教」の流れが生まれた。
しかし、日本においては公共と宗教の関係がこじれており、欧米や東南アジアのようにはいかない点がある。日本には神仏習合的な民間信仰の伝統があり、宗教は生活に密着しているが、一方で「宗教」という言葉に対して多くの人が嫌悪感を抱いている。読売新聞のアンケートによると、過半数の人が「しばしば家の仏壇や神棚に手を合わせる」「盆や彼岸に墓参りをする」と答えた一方で、「何か宗教を信じている」と回答した人は約26%にとどまり、世界的にも低かった。
この原因としては、「宗教」という言葉が組織的宗教と強く結びついていることが一因と考えられる。また、明治開国以降の宗教政策において、神道は宗教ではなく日本古来の習慣とされ、教育現場で強制された一方、その他の宗教は公から排除され、政教分離が進められた歴史がある。さらに、現代の「新宗教」に対する悪印象も加わり、宗教に対する不信感が根強く残っている。
こうした社会では、宗教団体による社会貢献は難しい。阪神・淡路大震災で被災地の援助に出動した天理教の災害救助ひのきしん隊は、地元の人々に安心感を与えるため、宗教団体だとわからないような服装で、他の団体と同様に活動せざるを得なかった。この経験を踏まえ、東日本大震災後には宮城県の宗教者や東北大学の宗教学者が、被災地での宗教団体の活動について議論を行い、複数の宗教団体が共同して支援する超宗教的な枠組みを作り、布教活動を行わず被災者の価値観に寄り添う形で心のケアを行うことが重要であると確認した。
東北大学文学研究科は、「臨床宗教師」養成講座を設置し、現在では他大学でも養成が行われ、様々な大学出身の臨床宗教師が全国各地の病院や高齢者施設で活躍している。
コロナ禍では、臨床宗教師の活動は新たな問題に直面した。井川裕覚特任助教からは、コロナ禍での臨床宗教師の具体的な活動内容や慰霊、死に関する問題提起について話題提供をしていただく。
「COVID-19パンデミックと向き合う宗教者:仏教寺院と臨床宗教師の取り組み」
井川裕覚(東北大学文学研究科 特任助教)
(経歴)
2021年3月 上智大学大学院実践宗教学研究科死生学専攻 修了、博士(文学)
東北大学大学院文学研究科 宗教学専攻分野/災害科学コアリサーチクラスター災害人文学領域 コミュニティ復興科学プロジェクト 特任助教
高野山真言宗 立野寺・歓樂寺(奈良市)住職
東北大学実践宗教学寄付講座 臨床宗教師研修 修了
日本の臨床宗教師は、欧米のチャプレン(様々な組織や施設で精神的な支援を提供する宗教的リーダー)をモデルに、日本の特殊な宗教事情を考慮しながら導入された。普段は宗教教団や施設に所属する宗教者が、病院、福祉、被災地などの公共空間で、布教や宗教活動を目的とせず、相手の価値観を尊重しながら、宗教者としての経験を生かして苦悩や悲嘆を抱える方々に関わるケア専門職である。
阪神・淡路大震災や東日本大震災では、犠牲者の追悼が行われ、メディアでも度々報じられた。特に東日本大震災では、行政が主導する無宗教的な慰霊行事も行われた。さらに、宗教者による「超宗教の祈り」が特定宗教の枠を超えて社会的に共鳴し、地域社会の連帯感を喚起する役割を果たしたことが窺える。
一方、COVID-19に関連した犠牲者の追悼活動は、日本では他の災害と比べてあまり目立たなかった。コロナ禍において、宗教は市民宗教的な慰霊を行って共同体を結びつける役割を果たさず、むしろ新規感染者を出さないようにすることや宗教教団の組織を保全することを優先した。これには「宗教の使命から見た決断」よりも「社会的決断」を優先する宗教のあり方が表れているという指摘がある。
一部の寺社では年中行事が中止されなかった例もある。これは限定的な例であるが、伝統を重んじる地域社会では、寺社が人と人との分断をかろうじて防いでいたとも理解できるかもしれない。
仏教寺院を対象とした大正大学の調査では、コロナ禍での葬儀は家族葬・近親葬を前提とした規模の縮小や形式の変更に焦点があった。僧侶たちは布教の機会が減少し、寺院存続への危機感を抱いていることが前面にでた。感染症と慰霊の関係がほとんど注目されなかったことは、僧侶たちが慰霊に関わる意義を再考する契機として、仏教界が今後乗り越えていかなければならない課題である。
2020年のお盆頃から、各地の寺院や葬儀社はオンライン葬儀・法要を紹介し始めた。葬儀の簡素化はCOVID-19以前からの傾向であったが、病院や福祉施設では面会制限の末に亡くなるケースが多く、2020~23年1月頃までのCOVID-19の犠牲者の場合、ご遺体は納体袋に入れられることが推奨され、接触を避けるために通夜・葬儀の機会がほとんど設けられなかった。この状況は「生/死」の分断を一般化し、社会に「隠された死」が存在することを示している。一方で、規模を縮小し葬儀を行った例もあり、そこでは遺族の葬儀への強い熱意や満足感の声が聞かれた。葬儀は、「生/死」、家族などの「共同体」の再統合を促す機縁を提供している。これはまさに、感染症によって社会が分断されていくなかで葬儀や慰霊を行う大きな要因であろう。
2021年4月から5月にかけて、多くの高齢者施設でクラスターが発生し、家族が患者の死に際に立ち会えない状況が続いた。この中でも、医療機関・施設等の「近代的空間」の管理や規律が強化され、個々の主体性・自律性を支持するケアが後退した。
臨床宗教師などのスピリチュアルケア専門職は多くの施設に入れなくなり、高齢者孤立化予防活動や緩和ケア病棟での傾聴、カフェ・在宅ケアも一時休止した。一部でオンラインやオンデマンドに移行した例もあるが、ケアの効果は今後検討する必要がある。感染症対策が優先された結果、臨床宗教師はエッセンシャル・ワーカーから除外され、「ケア」自体もエッセンシャル・ワークから除外された状況にあった。
演者は、「感染症と戦う医療・介護従事者の話を聴く会」を立ち上げ、感染症に向き合う医療者のケアやサポートに関わる活動を行った。医療者の声を聴くことで、感染症対策でケアが制限される中で、「ケア」の重要性が再認識された。再度ケアを社会に実装していくのがアフターコロナの課題であり、そこに宗教が関わる意義を考える必要がある。
これまで、感染症によって「近代的空間」が強化される社会における伝統仏教の葬儀と臨床宗教師のケア活動に注目し、宗教者の役割を検討した。葬儀や慰霊は「生/死」や「人/人」「人/社会」を再統合する社会的機能を持つ。臨床宗教師は、医療や福祉の現場において宗教や文化の次元をもたらす仲介役であり、患者の「自律」や「生きがい」、死への「諦観」などを考慮したケアを提供することが求められる。布教活動を行わなくても、ケア者としての役割に意義を見出すことができると考えている。
佐藤弘夫(東北大学文学研究科 名誉教授)
人は死を運命付けられた存在である。死は誰も体験したことのない出来事であるため、大方の人はそれに強い恐怖を抱いた。そのため、いつの時代にも、どの民族にも、生と死をつなぐようなストーリーが生み出されることになった。日本列島についていえば、中世ではこの世と違う場所に理想の世界(浄土)があり、死後そこに行くことができると説かれた。浄土のリアリティを共有できない近世になると、墓参りの習慣が定着し、死後も親族との親密な交際が継続すると信じられた。そうした歴史から見たとき、現代社会は生と死のストーリーが失われた時代ということができる。そうした中で、生と死をやわらかくつなぎ、新たなストーリーを立ち上げる役割を担う存在として、臨床宗教師の意義がある。
ディスカッション
〇臨床宗教師の資格要件
臨床宗教師になるためには伝統宗教の僧籍や神父、牧師等の資格が必要とされる。臨床宗教師養成の始まりとされる東北大学の養成講座は、最初は檀信徒の相談に応じる立場にある者を募集した。基本的には特定の宗教や教団の教師資格を持つ者が臨床宗教師の認定を受けられる。見習い段階の権教師などは臨床宗教師にはなれない。
〇臨床宗教師の出身宗教宗派:日本の宗教状況を反映する
臨床宗教師の出身宗教宗派の分布は、日本の状況を縮図的に表している。伝統仏教が7割から8割を占めており、キリスト教関係者は1割に満たない。これは、キリスト教が独自にチャプレンの活動を行っているため、臨床宗教師としての活動に合流しない場合が多いことが一因である。神道関係者も少なく、神社神道の神職はキリスト教関係者よりも少ないか同程度であるが、教派神道の関係者は比較的多い。教派神道は福祉などで民衆に近い立場で救済活動を行ってきた歴史があり、これに対し神社神道は社会活動に消極的な側面があることが、この違いの背景にあると考えられる。
〇宗教の役割の変遷と現代の課題:分断から貢献へ
イントロダクションでは、1980年頃から宗教は、「解放の神学」や「社会参加仏教」などを通じて弱者の立場に立つ動きを見せていたとされる。しかし現在では、例えば東ヨーロッパの国々が移民を排斥するためにキリスト教文明を掲げたり、アメリカの福音派がコロナ対策に反対したり、プーチン政権のウクライナ侵攻をギリシャ正教の司祭が顕彰したりなど、宗教が社会を分断する要因になっており、公共宗教が本来目指していた役割と大きく異なるものになっていると感じる。
現代は、公共宗教への流れが生まれた時代と前提となる背景も変わっているため、宗教が単に政治化するだけでは新たな分断を生む可能性があり、単に宗教が発言力を強め政治的影響力を持つことが重要なのではなく、宗教が社会に貢献する方法について考えることが重要である。
〇ヘルスケアワーカーの定義をめぐって:宗教的実践の位置づけ
現行のパンデミック条約では、ヘルスケアワーカーの支援や保護について議論されているが、その定義が曖昧だという批判がある。例えば、カナダでは助産師がヘルスケアワーカーとして認識されず、コロナ禍でマスクなどの必要な保護具が提供されなかった。そのため、ヘルスケアワーカーを幅広く定義し、保護すべきだという論説がある。
しかし、この論説でも、臨床宗教師などの宗教的実践を医療環境で行う人々はおそらく含まれていない。利用者や患者のニーズに応じて、臨床宗教師やその他のケアワーカーをケアの文脈に位置づけ直す必要がある。医療や福祉機関が自分たちのケアの限界を認識し、臨床宗教師を導入する動きが見られる。ヘルスケアワーカーの定義に、宗教的なケアを行う人々も含めるべきだという井川裕覚特任助教の提言は、現行のパンデミック条約の議論を超えており、大いに感銘を受けた。ケアワーカーの定義について全体で議論することが必要だ。
〇記憶の継承:長期的な感染症の忘却と宗教
災害や短期的な感染症の流行(例:SARS)とは異なり、COVID-19やスペイン風邪などの長期にわたる感染症やウクライナ戦争などが、時間が経つにつれて人々の意識から徐々に忘れ去られる現象について議論された。以下のような様々な見解が述べられた。
現在、宗教界でもCOVID-19に関する議論はほとんど行われておらず、宗教団体は組織の維持に重点を置くあまり、将来にわたってコロナの記憶を継承していく視点が欠如しているとの認識がある。震災に関する慰霊は粛々と行われているが、感染症に関する慰霊はほとんどなされていない。宗教界が慰霊塔やモニュメントの設置などの継承方法を主導すべきだと考えるが、実際にはそのような取り組みが行われていない。宗教界は、忘れられる記憶をどう継承していくかについて、より考えるべきだ。
阪神・淡路大震災では、西宮市長のメモにはまず慰霊が思い出されたことが記録されているが、COVID-19の場合は異なる。また、東日本大震災の後では、死者が出た自治体の中でも慰霊活動が行われているところといないところがあり、特に内陸の地域では行われていないケースが多い。こうした事例を踏まえると、普通ではない亡くなり方をした死者の慰霊が重要であるという日本人の意識が窺え、感染症による死者の慰霊が十分になされない現象が起こることも説明できる。
明治時代にコレラが流行した際、慰霊祭や復興を祝う祭りが多く行われたが、流行を繰り返すうちに次第に減少した。やはり慣れというのが大きいと考えられる。
COVID-19の流行はまだ終息していないにもかかわらず、世界は終息したと見なし、メディアもそれを取り上げないようにしている。メディアがこれを報道すると、一般社会でバッシングの対象になる。これについても文化的な観点からの検討の余地がある。
〇宗教の役割と感染症対策
特定の原理主義的な宗教や一部の宗教行事が、感染拡大の引き金となった例がある。しかしながら、これは宗教全体が危険であるという訳ではない。伝統的な宗教行事は感染症対策に協力的であり、イスラム教では例えばメッカの巡礼を中止するなど、しばしば安全策が採られる。したがって、一部の宗教行事がクラスターを引き起こしたと捉えるべきであり、宗教全体を一概に批判するべきではない。
特に福音派など、集会が重要視される教派や、聖霊に満たされる集団体験が重要な教派では、個人的な聖書の読解よりも集会での共同体験が中心であり、そのため集会に歯止めをかけることは難しいと考えられる。また、伝統的な宗教は過去の感染症の経験から知恵を得ており、対策を講じることができる一方で、中央集権的でないイスラム教のような宗教では全体の統制が難しいと思われる。感染症が拡大する中で伝統的な宗教の役割とのバランスを取る必要があり、各感染症に応じた対策が求められる。
〇日本独自の宗教空間と感染症対策
外国のイスラムやヒンズー教の宗教施設は多くの人々が集まることが一般的であるのに対し、日本の寺や神社は普段非常に静かで人があまり集まらない場所である。日本では、大勢の人が集まるのは主にお祭りの時だけであり、日常的には寺や神社は静かである。このため、感染症が広がりにくい構造になっている。さらに、寺院で行われる行事には一般の人々が参加できないことも多く、クラスターの発生リスクが低いという指摘もある。
日本の伝統仏教は比較的私的な空間として機能している。寺院は住職が守る私的空間として位置づけられており、多くの人が集まる公共の場所とは異なる。この特性が感染症の広がりに対して有効に働いている。日本の伝統仏教の現状は、ほとんどが「近代的空間」であり、感染症対策を行うことで、仏教の根幹である慰霊や葬式などの実践が継続できた。そのため、感染症対策に積極的に取り組む側面が日本の仏教には強く見られる。
感染症のリスクを避けるために宗教行事を自粛するという考え方は近代的な発想である。過去には聖なる行事に参加し、たとえ命を落としたとしてもそれが救済とされる時代が長かった。高野山での修行も死を前提とした宗教的価値観があったが、ここ150年ほどでそのような死を前提とする実践のリアリティが失われている。
〇宗教者による啓蒙の歴史と感染症対策
江戸時代においても、仏教僧侶が公共的な役割を担っていた例がある。堕胎抑制の啓発において、地獄や鬼の絵を用いた啓蒙書が作られた。コレラが流行した明治時代には、明治政府がコレラ対策として科学的な対応を重視し、啓蒙資料を作成し、宗教者がこれを広める役割を担った。教導職の制度は当初、国家神道体制の一環として神職に担わせようとしたが、神職が機能しなかったため、僧侶を再起用した。結果として、宗教を超えて様々な宗教者が関与することになった。
教導職が感染症対策の啓蒙を担ったことは興味深い。この役割が臨床宗教師のような性質を持ち、超宗教的な近代的道徳やイデオロギーを伝えるために作られたものであったことは示唆に富む。
〇都市と地方の宗教:コロナ禍を通じて見える違い
日本国内でも、大都市と地方では宗教者の果たす役割に大きな違いがある。特にコロナ禍を通じて、地域により寺院・宗教者が果たした役割に違いが見られた。例えば、ある地域では宗教行事がほとんど自粛されずに続けられた一方で、隣の村では厳しい自粛が行われた。この違いには、早期の対応方針の発表と地域での情報伝達のあり方が重要な要素となった。
また、臨床宗教師は地方では僧侶として受け入れられやすいのに対し、東京では受け入れられにくく、宗教に対する警戒感が強い。しかし、慰霊や先祖供養などの漠然とした宗教観は東京でも共有されている。これは宗教学ではスピリチュアリティと呼ばれるものであり、このような議論が行われることが東京の独自性を示している。
〇都市部の見送られない死の遠因
東京などの都市部では、共同性の解体が進み、寺に所属する人々が減少する中で、亡くなった人が見送られないケースが増加した。しかし一方で、葬儀を再度行うサービスや、葬儀ができなかった遺族へのサポートが広まりつつあった。地方ではコロナ禍においても僧侶に葬儀の相談ができ、その支えが大きかった一方で、都市部では相談相手が不足していたため、見送りたいと思う気持ちがあるのに見送られなかった死が増えたといえる。
〇在日外国人支援における宗教者の役割:宗教宗派を超えた連携の実態
在日外国人は多様な宗教背景をもっており、コロナ禍においては宗教者がワクチン接種などで大きな役割を果たしていた。一方、臨床宗教師は宗教協力に前向きではあるが、特定の宗教との積極的な連携は現実にはあまり見られない。特定の宗教団体との過度な交流は問題が生じることがあるため、臨床宗教師間の宗教宗派を超えた協力には積極的だが、それ以外の宗教との連携は表向きには控えめである。しかし、浄土宗の臨床仏教師が在日ベトナム人の支援を行っているベトナム人僧侶と積極的に連携している例がある。臨床宗教師にはこのような例は少ないが、社会福祉的な活動を行う宗教者の中には、宗教宗派を超えて連携する例も多いと感じられる。
〇臨床宗教師の業務と多職種連携:全体のケアのバランスを保つ
複数のケアが交錯する中で、全体のケアのあり方を定めることは重要である。その中で臨床宗教師は、直接患者にケアを提供するよりも、ソーシャルワーカーや看護師などの多職種と連携し、医療施設が目指すケアの方向性を常に見直し、再評価することが主な業務といえる。多職種連携を見失うと、スピリチュアルケアがキュアより優れていると臨床宗教師も誤解する可能性がある。したがって、多職種連携は非常に重要である。
〇宗教と科学の共存:感染症対策から考える臨床宗教師の存在意義
日本の神社仏閣においては、手水が廃止され、清めの水はアルコール消毒に置き換えられ、マスクなしでは本殿に上がれず、死者を拝むときにもマスクが当然とされている。この現状を踏まえ、科学と宗教の関係性や、エビデンス重視の現代社会における宗教の存在意義を再考すべきである。神社仏閣のような非日常的空間では、医学的な感染対策とは異なる対応も許容されるべきではないだろうか。
この問題には、一概に正解はなく、地域や状況に応じて異なる対応が必要だ。日本の宗教が社会とともに歩んできた歴史と、日本の宗教の独自性を踏まえて考えるべきだ。また、現代社会における臨床宗教師の存在意義として、エビデンスだけでは括り切れない、「四捨五入」しきれないような個々の苦しみに真摯に向き合う姿勢が、宗教の救済として重要だ。
科学と宗教の対立を超えて共存するためには、社会側も宗教側も変わっていく必要がある。臨床宗教師の役割は、その変革の一助となる可能性があり、社会と宗教が次のステップに進むためのあり方として評価できる。
〇さいごに:パンデミック下で問われる臨床宗教師の役割
今回のクロストークでは、文化的背景に通暁した先生方から、人々の死生観に関わる問題に焦点を当てながら、臨床宗教者の役割についての話題提供を頂き、議論が交わされた。臨床宗教師の活動は、日本の独自性に即した公共宗教の試みである。
パンデミックにより、社会と宗教との関わりが再考される契機となった。この大規模な共有経験は、今後の社会と宗教の関係性に大きな影響を与えるだろう。
臨床宗教師は、宗教そのもののあり方に影響を与えつつ、社会との接点においても新たな知見を得る。その役割は、宗教と社会の相互交渉にあり、両者の変容の中で重要な位置を占める。
臨床宗教師は、特定の神と人を結ぶのではなく、あらゆる宗教の宗教者が自身の経験をもとにして人間の不条理に向き合い、日本人の内に潜む霊的な感覚を静かに引き出す役割を果たす。パンデミックに直面する今、宗教の新たな可能性を切り開く時である。